【エッセイ部門・優秀賞】何か手伝えることはありますか

獨協埼玉中学・高等学校第1学年 富谷野乃

「何か手伝えることはありますか」

お節介なほど親切な友だちがいる。電車の中でお年寄りを見た瞬間に席を立つ。ちょっと遠くても声をかける。小さい子がぐずっていると笑いながら声をかける。私は…私は彼女といると、実は、とても恥ずかしい。
誇らしいはずの友だちを隣にして「恥ずかしい」なんて、ホントになんと恥ずべき人間なのだろうと思う。そういったことが身について反射的にできる彼女が羨ましいとも思ったけれど、それと同時に「え? ちょっとは私のことも考えてよ」という、利己的な、近視眼的な物の見方しかできない、みっともない自分が浮き彫りにされてしまう。他人が誰かのために行ったことに追い詰められてしまうのはどこかおかしいのだろうか。彼女が当たり前にしてのける優しさに「いつも偉いね」なんて言いながら本当はそうは思っていないだろう自分の心の汚さが嫌になってしまう。だったら自分もやればいいことなのに、やりもしないで文句を言う、いや、文句を心のうちにため込む自分が情けない。
中学校の頃、友だちと二人で原宿まで行った帰り、電車で目の前におばあさんが立った。私も友だちも大きな荷物を膝にのっけていて、その荷物に顔を隠すようにして「どうしようか?」「譲る?」「でも元気そうだよ」「せーの、で立とうか?」などとボソボソやり取りをし、『せーの』に決定した私たちは二人で立ってそのおばあさんに席を譲った。おばあさんにはその様子がずっと見えていたのかもしれない。にっこり笑って「ありがとう。勇気があるのね」と言った。
『勇気があるのね』。それは不思議な言葉だった。『優しいのね』でも『助かるわ』でもなく『勇気があるのね』。確かに優しさとはちょっと違った。正直、おばあさんが目の前に立った時「まいったなあ」と思った。譲らなかったら周りの人にどう思われるかを気にしたのだ。一人に二人で席を譲ったのは別におばあさんが太っていたからではない。どちらが譲る、とか、そんな状況からも二人とも抜け出したかったのだ。それから私たちは車両を移動した。それは9割が恥ずかしさで1割が優しさだった。手に一杯荷物を持った子がいつまでも目の前にいたら居心地が悪いだろうと思ったのだ。優しさ、と書いたけれど違うかもしれない。想像力、の方が正しい気がする。譲られた人がどう思うかへの想像力だ。
それから私は時々勇気について考える。例えばすぐ近くに転んで起き上がれない人がいたら、いくら私でも助けるだろう。ただ、元気なお年寄り、松葉杖を使っているけれど運動部系の高校生や白杖を持っているけれど慣れた感じで歩いていく人が何かを欲しているのか慮ることが難しい。声をかければいいのか、それが迷惑なのか、求めている様子があ
るのかないのか、何かを我慢しているのか。いつもそうした場面で固まってしまうか、目の端っこで追いながらどこかに声をかけるお節介な人がいてくれないかと願っている無責任なわたしがそこにいるのだった。
そんな私が怪我をして松葉杖を使った時、その慣れない道具に振り回された。人にはそうなってみないとわからないことがあるのだとようやく気付いた。席もエレベーターのスペースも何度も譲ってもらい助かったこともあったし、譲ってくれなくていいのにと申し訳ないけれど思ったこともあった。そんな松葉杖生活の中で一番助かったのは「何か手伝えることはありますか」と言われたその一言だった。背中に回していたバッグが落ちてきて松葉杖との間に挟まって悪戦苦闘している時だった。
この言葉いいなと思った。素直に甘えてバッグを背中側に回してもらった。具体的なことを口にしないので『勇気』もいらないし、いきなり手を貸すより相手の負担にもならない。
短い松葉杖生活も終わり、私は相変わらず自意識過剰の恥ずかしがりやだ。ただたったひとつだけ習得した「何か手伝えることはありますか」をデビューさせた。階段を下りるお母さんのベビーカーを運んであげただけなのだけど、おまけによく見たら離れたところにエレベーターもあったという顛末なのだけど、何だか嬉しかったしやっぱり恥ずかしかった。この恥ずかしさのほとぼりが冷めたら、また誰も知り合いの見ていないところでこの言葉を使って誰かの役に立てればいいなと思う。

 

≪講評≫
困っている人に手を差し伸べるのは大人でも勇気のいる行為である。ましてや高校生にとっては恥ずかしさが先に立って、なかなか実行できないだろう。それで も誰かの役に立ちたいという思いを実践に移していく過程を、自らの心の変化を主軸にして描いた読み応えのある作品だった。文体にキレがあり、タイトルの意味を最後に明かす構成力も見事である。誤字脱字を見直すとともに、改行や句点のつけ方を工夫すると、さらに読みやすい文章になるので、文章力に磨きをかけ てほしい。

安藤卓