【エッセイ部門・優秀賞】母の愛の味

甲南女子高等学校第3学年 金山 莉央

「母の愛の味」

小学生の頃まで、私と妹は卵アレルギーを持っていた。一口にアレルギーと言っても症状の度合が人それぞれであるが、私たちの場合、揚げ物などのつなぎに使う程度の量を摂取しただけでたちまち顔は吐き気で真っ青に、体は蕁麻疹で真っ赤に、といった具合であった。だから、食べられないものは多かった。
ケーキやドーナツといった一般に子どもの好物とされるものは全て駄目だった。ショーケースに陳列された見た目華やかなそれらは、目で見て楽しむための芸術作品に過ぎなかった。また、お菓子を買うときも、いちいちパッケージの裏面に記載されている成分表を見て「卵」の表示が無いことを確認してから初めて買い物カゴに入れることができた。そのせいで、私が人生で初めて知った漢字は「一」ではなく「卵」だ。皮肉である。
このような生活は不自由に思われるかもしれないが、当人の私がそのように感じたことはなかった。強いて言えば、卵かけご飯の味だけはどう足掻こうと知り得なかったのがもどかしかったことぐらいだ。これは、母のおかげだった。
食において、母は私たちを何不自由なく育ててくれた。卵を使わずに済むよう工夫して様々な料理を作ってくれたので、一般家庭の食卓に並んで我が家の食卓に並ばないものはそれこそ卵料理以外に無かった。おやつに作ってくれた自家製プリンは、私の好物だった。卵を使わないスポンジケーキを置いている店を探し、遠くまで出向いて買ってきてくれたこともあった。さらに、学校の給食で食べられないものが出るときは、代わりのおかずを持たせてくれた。毎回学校のメニューよりも豪勢なものを作るので周りから羨ましげな目で見られて気恥ずかしかった。いや、気恥ずかしかったのはひしと感じる母の愛情だっただろうか。いつのときも母は、私たち姉妹が食べられないものがあるせいで惨めな思いをしないように尽くしてくれていたのだった。
そんな母が、たこ焼きを焼いてくれたことがあった。確か私が七歳、妹が四歳の頃だっただろうか。とにかく嬉しかった。たこ焼き屋の前を通るときに嗅ぐソースのにおいには何度腹を鳴らしたか知れない。憧れの食べ物の一つだった。見慣れないたこ焼き器で母がたこ焼きを焼いている間も妙に緊張してしまって、両手を膝の上で凝り固めながら、これからたこ焼きになるのであろうどろどろしたものが焼かれる様をじっと見つめていた。妹はしきりに箸でそれをつつこうとして母に手を叩かれていた。
実食のとき、あのおいしそうなソースのにおいがこの家でしている、と思い心弾んだ。期待に目を輝かせ胸を膨らませ、けれども恐る恐ると、一口食べてみた。熱かった。そし
て、ものすごく塩辛かった。どうやら母は材料の分量を間違えたらしかった。それまでたこ焼きを食べたことはなかったが、これはおかしい、と思った。と同時に、このことを母に言ったら皿が下げられてしまう、とも直感的に思った。待ちに待った人生初のたこ焼きであったから、それは避けたかった。それに、さも体に悪そうな塩辛さが逆にちょっとおいしくもあったのだ。私はただ、おいしい、とだけ言って食べ続けた。妹もそんな風であったので、姉妹思うところは同じだったようだ。
しかし物事は思ったようにはいかないもので、味見にひとつつまんだ母がとうとう異常に気付き、恐れていた通り皿を下げようとした。私は皿にしがみ付きながら、すずめの涙ほどの語彙をかき集めて「このたこ焼きはすごくおいしいから下げなくても大丈夫」といった意味合いのことを母に訴えたが、それも無駄な足掻きに終わってしまった。
こうしてその日、私たち姉妹にとってのごちそうは冷蔵庫のあり合わせへと悲しい変貌を遂げたのだった。あの日の昼食(代理)の味は覚えていないが、そのかつてないほどの味気なさだけは今でもしっかりと覚えている。
成長と共にアレルギーの症状は軽くなっていき、現在では普通に卵を食べることができる。卵かけご飯の味も知った。学校のお昼休みに広げるお弁当にはだし巻き卵の鮮やかな黄が彩を加えている。ケーキ屋に並ぶケーキも、もうただのオブジェではない。フォークでつついて食べられる。普通の人と同じ生活ができることは、嬉しいものだ。
思い出深いたこ焼きはと言うと、家で焼くとペンキを塗り替えた天井が煙で黒くなってしまうという理由から店で買うようになった。中がとろとろしていておいしい。
けれども、その「おいしい」たこ焼きを口の中で転がしながら何か物足りず、あの日の塩辛い味をもう一度食べたい、と思ってしまうのだ。私は贅沢者だろうか。