【小説部門 優秀賞】 写真

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私立筑紫女学園高等学校 第3学年 秋山 香織

その線香は、後にも先にも嗅いだことのない匂いだった。
葬式の後片づけを済ませた奈々子は、その足で父の家へと向かっていた。僅かに雨くさい 駐車場には、愛車のワゴン以外一台も見当たらない。カツカツとテンポの速い靴音が跳 ね返るだけであった。
田舎道に出ると、サイドミラー越しに、小さかった雨雲が雷を伴って、追いかけて来るのが見えた。瞬く間に車のフロントガラスが雨粒に覆われていく。対向車のヘッドライトが、ぽつぽつと現れては尾を引いてすれ違って行った。やはり、寝不足の瞳には、ぼんやりとした光でさえ刺激が強い。奈々子は左手でハンドルを切りながら、眉間をぐりぐりと揉んだ。助手席のスマホには、太陽のマークが表示されている。夕方の天気予報は、見事に外れたら しい。LINE の通知ランプが見えたが、着信はまだ一件も無かった。奈々子が弟の携帯に留 守電を残してから、既に三時間が経とうとしていた。
奈々子が運転する車は、薄いグレーだった。目立たない車だが、こんな日は、雨の中に溶け込んで、誰にも気付かれないような安心感を与えてくれる。奈々子は道路脇のカフェテリアに愛車を停めた。 店内の空気が予想より暖かくて、自分の身体の冷たさに驚いた。
奥の四人席では、黒縁メガネの男性がいたずらにコーヒーをかき混ぜていた。向かい側に座ると、男性は慌てて背筋を伸ばした。
「こんにちは、お電話を頂いた今井奈々子さんですね? 私はお父様の土地の管理を務める濱口と申します」
どうぞ、とメニュー表を手渡された。濱口さんは、店の入り口を一瞥して尋ねた。
「そういえば、弟さんは来られないんですか?」
「いえ、実は弟の福岡空港行の便が悪天候で遅れて…。今日中に帰って来られなくなったんです」
仕事で海外に住む弟は、チケットを買ったものの、空港で足止めを食らったらしい。昨晩の通話で、間に合わなくてごめん、と謝ってきた声は心なしか掠れていた。その後、電波ま で悪くなり、ついには連絡も取れなくなってしまったのだ。 奈々子がコーヒーを頼むと、濱口さんが小声で話し出した。
「そうでしたか。まぁともかく、本日はいくつかの書類をお渡しするだけなので」
透明なファイルが一つ、奈々子に差し出された。たった数枚の書類は確認するまでもなく 揃っているだろう。
「この書類をお渡しする前に、既にご存知ではあるかと思いますが、改めてお伝えします……。お父様が自宅で発見されたとき、既にベッドの上で亡くなっていました。寝ている間に心臓発作が起こり、苦しむことも無かったようです」 眼鏡がコーヒーの湯気で曇り、彼の表情はよく分からない。しかし、最後の一言に、奈々子は無意識に詰めていた息を吐きだした。
「もう、楽になって良かったんです」
奈々子は呟いた。
「父は元々ある持病が悪化してから、ほとんど病院のベッドに寝たきりでした。本当は、いつ死んでもおかしくなかったんです」
しかし、なんと言うか、しぶとい父は、余命宣告より半年も長く生きていたのだった。

奈々子の父親は、彼女が物心つく前から寡黙な人間だった。弟のユウキが幼稚園の年長になった直後、母と別れた時でさえ何も言わなかったほどだ。しかし、趣味の写真撮影も、そ れ以降ぱったりと止めてしまった。
ユウキが中学二年生の時、父は珍しく体育大会に顔を出していた。組体操・棒引きと続き、ユウキがアンカーを走る団体リレーが始まった。しかし、奈々子がカメラを構えた途端、父の腕がそれを遮ったのだ。
「こんなもんいらん」
「なんで? ユウキの写真撮らんと」
それを聞いた父の顔は、今でも忘れられないほど無表情だった。目の端で、ユウキのチー ムが一人に追い抜かされた。
「これは、カメラは要らん」
「でも、写真撮らな、勿体ないやん」
静かに話す父親に、奈々子は急に向き直って反論した。
「いいや、そんなことない。寧ろレンズ越しに見るほうがもったいないやろ。自分の目と心でしっかり弟の勇姿を見ちゃらんね」
でも、と食い下がる声は観客の声援にかき消された。慌てて振り返ると、既にアンカーがバトンを受け取っている。あまりの接戦ぶりに、弟がどこにいるのか分からない。周りに負けじと声を上げる奈々子には、カメラを構えるつもりも、時間も無くなっていた。
しばらくして、彼女が実家から独り立ちした後、父から手紙を送られてくることがままあった。大抵は奈々子の大学生活の心配に始まり、返事の手紙を急かされ、少しだけ自分の近況をしたためた物だった。その中に、濱口さんと懇意にしているとも書いてあったはずだ。 濱口さんの一言が、改めて身に沁みた。
奈々子が物思いに沈むうち、注文したコーヒーのミルクが渦を巻いていた。濱口さんは、急に黙った奈々子を気遣ってか、何も言わずに自分のカップをかき回している。入店のベル が鳴り、我に返った奈々子は、慌ててコーヒーを流し込んだ。
父の家に着いた頃、時計はすでに夜の八時半を回っていた。久しぶりに開けた扉は、軋む気配もない。奈々子は自分の足音に耳を澄ませながら二階へ上った。やや急な造りの階段は、 少なからず父の腰に負担を掛けていただろう。
「手すりの一つでも付けておけば良かった」
口をついて出た言葉に、後ろめたい感情が鎌首をもたげていた。
とりあえず一階の部屋を掃除していると、やはり父の簡素な生活が垣間見えた。もともと、ある程度の掃除は済ませてある。しかし、壁一面に掛けられた絵画や、乱雑に積み上げられた本の山は手付かずだったのだ。それだけが、父の残した全てだった。ユウキと二人で分ければ、何とか管理出来るだろうか。
目の奥からじんじんと疲れを訴えられ、奈々子は掃除もそこそこに、夕飯も作らず灯りを 消した。
真夜中、いつものように目が覚めた。それは、何も今夜だけではなかった。父が初めて奈々子に涙を見せた記憶が、ここ最近、ふと思い出すようにして夢に現れていた。 奈々子は当時、小学生なりに両親の夫婦仲が冷えていくのを察していた。案の定、別居を言い渡した母に、しかし奈々子たちを渡さなかったのは父だった。いまさら夢に見るのは、頭を撫でる父の手が震えている場面ばかりだ。ユウキは、もう母の顔を覚えていないだろう。唯一残っていた家族四人の写真も、離婚が成立した後、奈々子が破り捨ててしまっていたのだった。
二階に上ると、奈々子はこの日もベランダで煙草に火を点けた。ふと、書斎の机に目が留まった。確かに一つ、写真立てが置いてある。無意識に手に取ったが、中身は無かった。もともと捨てる予定だったのか。しかし、小奇麗な額縁は明らかに新品のそれだった。気になってしまうと、奈々子も放っておけなかった。写真を撮るどころか、飾ることも止めた父だ。どんな写真を飾るつもりだったのか。ゴミ箱を見ると、写真立てのレシートがあった。記されていたのは、父が入院先の病院から自宅に戻って二日目、今から三週間前の日付だった。
翌日、昼過ぎまで寝過ごした奈々子は、夕方になってから弟の幼馴染が経営する雑貨店へ足を運んだ。
「おぉ、久しぶりですねお姉さん。今日は何をお求めで?」
人当たりの良い男性は、ユウキの仕事先が海外に決まったのを祝う飲み会で見た時のまま、変わっていなかった。
「ええと、今日は探し物をしに来たんだけど、この写真立て、売ってる?」
達也はスマホの画面を凝視して、首を振った。
「残念だけど、うちには置いてないですね。レシートの方にも店舗名が載ってないから、どこで売ってるかも分からないし」
「そっかぁ。父が買いに来るとしたら、ここしか思いつかなかったんだけど」
思いのほか、落ち込んだトーンになってしまった。
「ええと、販売店が知りたいんなら、友達の店にも電話して調べてみるから、ちょっと待っててください!」
彼はそう言うと、店の奥へ慌ただしく戻って行った。
手持ち無沙汰になった奈々子は、ぐるりと店内を見回した。まだ彼のお母さんが経営していた頃、奈々子の父が足繁く通っていた。その頃に比べて、雰囲気が少しカジュアルになっていた。近くの棚に視線をやると、燕の置物と目が合った。しっかりと枝に止まりながら、まさに羽を広げようとする瞬間を切り取ったものだった。その瞳は、サンキャッチャーのように次々と光を飲み込み、二度と同じ表情を見せなかった。しばらく見つめ合っていると、 ふいに燕が笑った。
「お姉さん、連絡取れましたよ。確認するまでもうちょい時間が掛かるから、ここでくつろいでて下さい」
背後で、幼馴染が半分照明を遮るかたちで立っていた。
「その写真立て、お姉さんが買ったんじゃないんですよね?」
「そうね、これ、父が買ってたんだけど、中身がないから気になって。写真を探しているの。 あの人なら、この写真に合う額縁をくれって店員さんに見せるだろうし」 「確かに、外側の保護テープも切れてないから、中身入ってなかったんでしょうね。購入されたのが随分前だから、そこの店員が覚えているかは怪しいけど……お父さんのためなら、写真探しを手伝いますよ」
そう言ったきり、奈々子に椅子を差し出してからの沈黙は、不思議と心地良かった。昨日の葬儀に参加出来なかったものの、彼もまた父の訃報を受けて奈々子を励ましてくれた一 人だった。
隣に座る達也は、家が離婚騒ぎになる前から、ユウキと親友だった。二人でバカをやっては、奈々子にまとめて叱られていたのだ。いつだったか、奈々子が父と喧嘩した末に、家を飛び出したことがあった。その時、偶然彼女を見かけた達也は、しかし弟も呼んで、そのままカラオケに行こうと言い出した始末だった。結局、奈々子の父親にバレてしまい、三人とも叱られた。くだらないと言えば、それまでのことだが、今の奈々子は思い出さずにいられなかった。
父の入院当初、奈々子と一緒に見舞いをしに来たのも彼だった。実家の掃除も、やはり力仕事をこなせない奈々子に代わって、よく手助けしてくれたのが、つい昨日のようだ。しかし、奈々子は着実に弱っていく父の姿を見せたくないと思いはじめ、半年前に電話で見舞い
を断っていた。その時に、父が長くないことを察したのだろうか。電話越しに、分かった、とだけ返されていた。

「部屋に残ってる写真は少ないけど、どれを飾ろうとしてたのか分からなくて」
奈々子が眉間に皺を寄せていると、店の奥で達也を呼ぶ声が響いた。
戻ってきた達也は、微妙な苦笑いをしていた。結局のところ、写真立ては此処の商品だったらしい。彼のお母さんが店番をしている間、父が購入したのだそうだ。レシートも途中で紙が切れてしまい、店舗名が印刷できなかったとか。
奥からお母さんが出てきた。
「あらぁ、久しぶりね、奈々子ちゃん。お父さんのことは残念だったわ。写真のことも含めていろいろお話したいんだけど、今夕飯の支度で手が回らないのよ」
それから十分ほど経つと、奈々子は幼馴染のキッチンで野菜を切っていた。あの後、彼女の食欲が湧かないのを聞いて、裕美さんが夕飯に誘ってくれたのだ。奈々子自身は、彼女の お腹が鳴って、慌ててお手伝いを申し出た。
「それで?」
口火を切ったのは裕美さんだった。
「いかにも悩み事があります、って顔に書いてあるけど」
奈々子は玉ねぎを切る手を止めて、鍋に火を点けた。
「やっぱり大学生になっても、裕美さんに隠し事は通用しませんね」
大袈裟に聞こえてきた溜息は、奈々子に口を開かせるのに十分だった。
相談することなのかわかりませんが、という前置きを無視して、裕美さんは続きを促した。

奈々子が達也に電話を掛けた後、一人で父の見舞いに行った時だった。病室には珍しくユウキが来ていたが、父の顔は強張っていた。そして、父は兄弟に向かって、家族として暮らせた幸せへの感謝と、謝罪を語った。
「母親がいないことへの苦労は、お前が一番背負っていただろう。 大変な時期もあったが、一緒に暮らせて、俺は幸せだった。あんまり俺の世話ばかりしないで、自分の勉強と好きなことをやりなさい」
そう言われて、奈々子は泣いた。言葉数の少ない父が、初めて胸の内を明かしたのだった。
しかし何よりも驚いたのは、母の連絡先を手渡されたことだった。勿論、奈々子やユウキの
立場ならいくらでも調べることは出来たが、彼女はそれを望まなかった。奈々子は言いよう のない気持ちに襲われた。

「父は私が母に会うことを否定しなかったけど、父が死んだ今、母に会うべきか分からなく て……熱っ!」
誤って鍋に触れた手を、裕美さんはまじまじと見つめていた。大したことはなかったが、 奈々子の手を両手で包み込んだ。
「お父さんは、奈々子ちゃんをいつも自慢しとったよ。こんな俺が親でも立派に育ってくれ たってね」
握る手に力がこもった気がした。
「あんたがしたいようにすれば良いと思うよ。多分お父さんも私と同じことを言うよ」
奈々子は返す言葉をなくした。ひたすら、鍋が煮える音だけしか聞こえなかった。 奈々子が父の家に戻ったのは、九時を過ぎたあたりだった。妙な疲れを背負ったまま、気が付くと布団の中に倒れこんでいた。ごろりと仰向けになった先には、父も眺めていた木目の細かい天井があった。
もし、父がまだ生きていたら。そう思うことがまた増えた。病院での一件以降、父がその話題に触れることはなかった。しかし、裕美さんの話を聞くうち、奈々子の中にいる父親像 は少しずつ変わっていった。
もしあの日、ユウキが帰った後も病室に残っていたら、父と話の続きが出来ただろうか。それ以前に、あの家族四人の写真を破いたのが奈々子だと告白すれば、父は母の連絡先を渡さなかっただろうか。取り留めのない自問自答を繰り返しても、胸の中に溜まった何かは消 えなかった。
ただ、死んだ父の奈々子を大切に思う気持ちが、嬉しくて、切なくて、悔しかった。

スマホの激しい振動に驚いてから、奈々子は初めて自分が寝ていたことに気が付いた。何度も着信画面に写るのは弟のユウキだった。
「あぁ、やっと出た。俺もう福岡空港着いて近くのホテル取ったから。明日にはそっちに行 けるよ。葬儀のこと全部任せて、ごめんな」
大丈夫だよとは言ったものの、奈々子の声も疲れていた。
「今日は何してたの?」
「うーん、昨日のうちに粗方掃除を終わらせたから。今日はあんたの友達がやってる雑貨屋に行って来たよ」
奈々子は写真立てのことを話した。夕飯を食べ終わった後、由美さんが教えてくれたのは、父が誰かに写真の現像を頼んでいたことぐらいだった。適当に聞き流すとばかり思っていたが、ユウキは意外なほど話に聞き入っていた。
「それ、写真現像したの俺だわ。多分書斎の引き出しに入ってるから、見てみ」
奈々子は二階に上ると、スマホを左手に持ち替えて引き出しを開けた。確かに、茶色の封筒が一枚入っていた。
「じゃ、また明日」
ユウキは唐突に電話を切った。奈々子は写真を取り出してから息を飲んだ。
写真に写っていたのは紛れもない奈々子だった。父の見舞いに行ったとき、疲れが溜まっていて、テーブルに突っ伏したまま寝ていた姿だった。肩には、父が掛けてくれたらしいブランケットもある。奈々子に対する労りが透けて見えるような写真だった。父が最後に撮った一枚に、奈々子は涙をこらえきれなかった。