【小説部門・優秀賞】がめくり込んで、

筑紫女学園中学校・高等学校第2学年 吉原菜桜

がめくり込んで、

「起立、礼、」
「ありがとうございました」
驚くほどに気持ちの籠っていない、儀礼的な感謝の言葉を呟いて、どすりと椅子に倒れこむ。昼休みの始まりを意味する喧騒が教室内に広がっていった。それにしても今日は妙に一日が長い。一時間一時間がだるくてしょうがなかった。ぼうっとしていたら、短い昼休みはすぐに終わってしまう。「よいしょ」と若者らしくない掛け声と共に、いつもの定位置に向かった。
「八坂」
八坂の机の前の席を勝手に拝借して座る。机の上に本人の許可は得ずに弁当を広げた。八坂を見ると、珍しく机に突っ伏したまま顔を上げない。
「八坂、いつまで寝てんの。もう昼だよ」
無視。まぁ、別にいいけど。
気にせず弁当箱を開けて、思わず小さく「よっしゃ」と呟いた。中に入っていたのは筑前煮。俺の大好物。特に家の筑前煮は味がしっかりと染み込んでいて特別美味い。それで、ごぼうがちょっと硬いのが、また最高に美味しいんだ。好物が入っていると、それだけでテンションが上がる。
「いただきますっと」
一口、口に入れて、広がる醤油の風味に、思わず、頬が綻んだ。あー、美味い。前を見ると八坂はまだ突っ伏したままで、思わずため息が出る。折角の幸せな気持ちが半減しそうだ。
「おい、八坂ってば、いつまで寝てんだよ」
そう言うと、もぞもぞと動いてやっと顔を上げる。目があって、その瞳に光がないのに驚き、そして、背筋ぞくりと震えた。
「や、さか?」
「なぁ、伊賀」
八坂が俺の名前を呼ぶ。光のない瞳が瞬きもせずに俺を見つめている。
「どうして、ひとをころしちゃだめなんだろ」
じわり、と口に含んだ鶏肉から、さっきと違う妙に油っぽい醤油の味が染みる。感触が妙にリアルで、それが生き物の肉であることを唐突に理解した。咀嚼してゆっくりと飲み
込む。こくり、と微かな音がした。
「ねぇ、なんで」
口の中の筑前煮の味と八坂の声が脳をじんわりと侵食して、ぼうっとする。教室の喧騒がゆっくりと遠くなっていく。
「……」
目の前の友人の顔を見つめる。相変わらず八坂の瞳は暗いままだ。呆然としたまま、八坂の名前を呟くと、あいつは初めて俺のことに気づいたみたいにはっとして、いつものように「どうした?」と笑った。
「どうしたって……お前、」
「わすれて」
有無を言わさぬ笑顔で笑う。
「大したことじゃないからさ。ほら、んなことより弁当食おうぜ」
さっきまで弁当も食わずに突っ伏してたのはお前の方だろ、とか、大したことじゃないわけがないだろ、とか言いたいことは色々あったはずなのに、結局何も言えずに、「おう」と返すことしかできなかった。その日の弁当は、なぜか全く味がしなかった。

コツコツ、とシャーペンと紙がぶつかる音と、カツカツ、とチョークが黒板を滑る音しかしない。まぁ、当然か。この先生は怒らせると面倒なことで有名だ。それと同時に、授業がつまらないことでも。周りを見ると何人かが夢の世界へ旅立ちかけている。かく言う俺も眠くてしょうがない。ぼうっと前を見つめていると、八坂の妙に姿勢のいい後姿が目に入った。思わずじっと見つめてしまう。あの日以来、あいつの言った言葉が頭から離れない。自分でも、なんでなのか分からない。八坂はそんなことを言うキャラじゃない。いつも鬱々しているやつならまだしも、あいつはむしろいつも笑っている方だ。高校二年生という一番不安定な時期だからって、意味なく、どうして人を殺してはいけないか、なんて聞くはずがないのに。
「はぁ……」
小さく息を吐く。視線を真っ白なままのノートに滑らせた。そう言えば、なぜだろう。なぜ人は人を殺してはいけないんだろう。考えれば考えるほど、明確な答えを知らない気がして無性に怖くなる。今まで考えたこともなかった。人を殺してはいけない理由なんて。
それは至って普通のことであるはずなのに、なぜかひどく異常なことのように思える。八坂は誰か殺したいと思ったんだろうか。視界がなぜか歪み始める。頭が痛い。ぐるぐるする。気持ち悪い。思わず口元を押さえると、「おい」と急に声をかけられた。びくり、と大げさに体が震える。恐る恐る顔を上げると俺がこうなっている「原因」が心配そうな目でこちらを見ていた。
「だいじょうぶか? 伊賀。お前、顔色最悪だぞ」
お前のせいだとは言えずに、思いっきり足を蹴りつけてやる。痛がる八坂を見て、少し
すっとした。
「ってか、なんか用?」
八坂が俺の席にやって来るなんて用事があるときくらいだ。俺がそう言うと、八坂はきょとんとした。なんだ、その顔。
「用って……お前、今から昼じゃん」
「え?」
周りを見ると、確かに教室を弁当の匂いと例の喧騒が満たしている。全く周りが見えていなかったことに気づいて、また怖くなった。
「なあ、ほんとに顔色悪いぜ、お前」
心配そうに覗き込む八坂の顔を直視できない。とっさに立ち上がった。
「伊賀?」
「悪い、気分悪いから保健室行ってくる」
逃げるように教室を飛び出した。何から逃げているのかは自分でもよく分からなかった。

「失礼します」
保健室に入ると、つんとした消毒液の匂いが広がる。昔からこの匂いは嫌いじゃない。息を軽く吸い込むと、煩かった心臓が少し落ち着いた気がした。
「どうかした?」
カーテンの向こうから保健室の先生が顔を出した。俺の顔を見るなり慌てて駆け寄ってくる。
「あなた顔色悪いじゃない。だいじょうぶ?」
自分では分からないが、相当酷い顔をしているらしい。大丈夫だと頷いても納得してはもらえなかったらしく、手首をとられて脈を測られる。自分でもそこが脈打っているのが分かって、また気持ち悪くなった。
「熱はないわね。とりあえず、寝ときなさい」
大人しくベッドに寝転ぶ。だが、シーツの冷たさがじんわりと広がって、眠れそうになかった。
「気分はいつから悪いの?」
俺に眠る気がないのに気付いたのか先生が側に座った。
「さっきの授業中から」
「そう」
先生との間に静かな沈黙が流れる。不意に先生が笑った気配がした。
「なにかあった?」
驚くほどに優しい声音。一瞬でこの空気を作れてしまうのは女性だけの特別な能力だろう。確か今年で四十になる先生には、まだ小さい子供がいたはずだ。だからなのかもしれない。その不思議な優しさに誘われるまま、口を開く。
「……先生、どうして人を殺したらいけないんですか」
突拍子もないことを聞いている自覚はある。それでも、先生の雰囲気は変わらない。むしろ、さらに柔らかくなった。
「どうして、そんなこと考えたの?」
「俺じゃありません」
シーツを思わずぎゅっと掴んだ。
「伊賀くんじゃない?」
先生が不思議そうに言った。
「八坂がそう言ったんです」
言葉が次から次へとぽろぽろと溢れてくる。
「八坂が、ある日、びっくりするほど暗い目で、ねぇ、伊賀って、どうして人を殺しちゃいけないんだろうって、その言葉が忘れられなくて、考えても考えても分かんなくて、そう言えばそんなこと今まで一度も考えたことなくて、ぐるぐるして、気持ち悪くて、吐きそうなのに、あいつはいつも通りで、」
「伊賀くん、落ち着いて」
自分が何を言っているのか分からなくなる。喉がひゅう、ひゅう、と変な音を立てていた。
「俺、八坂と親友だと思ってた。ずっと一緒にいて、八坂のこと知ってる気になってた。けど、俺、もうあいつが分かんないんです。なんで、あんなこと言ったんだろ、誰か殺したいって思ったのかって、もう、よく分かんなくて」
先生が俺の背中に手を当てる。そこからじんわりとした温かさが伝わって、自分の意思とは関係なく視界が滲んだ。
「どうして、ひとをころしちゃいけないんだろう」
先生は何も言わない。ただただ、俺の背中をゆっくりと撫で続ける。先生と俺の間に沈黙が流れる。
「伊賀くん、もう何か食べれそう?」
「え?」
突然、先生がそう言った。意味が分からなかったが、言いたいことを吐き出したからか、確かに少し空腹感を感じる。
「食べれます」
「じゃあ、先生のお弁当あげる」
そう笑顔で言って立ち上がると愛らしい桃色の袋を持ってきた。出てきたお弁当はいつも俺が食べているものに比べると驚くほど小さい。ふたを開けると、中には筑前煮が入っていて、思わずはしゃいだ声を上げてしまう。
「あ、これ」
「これ? あぁ、がめ煮ね」
「がめ煮?」
聞いたことのない名前に首を傾げる。
「筑前煮じゃないんですか?」
そう言うと、先生は「あ、そっか」と笑った。
「こっちでは筑前煮っていうのよね。私九州の生まれだから。これね、福岡の郷土料理で向こうでは『がめ煮』っていうの」
「がめ煮……」
呼び名が違うと全く別のものに見えてくるから不思議だ。じっと見つめていると、先生が箸でとって差し出した。
「ほら、口開けて」
さすがにあーんは恥ずかしいから嫌だと抵抗したが、「いいから」と笑う先生とがめ煮の誘惑に負けて口を開く。自分の家の味付けよりもすこし濃い醤油の味が噛めば噛むほどじゅわり、と染み込んで思わず頬が緩んだ。
「さっきのね、そういうのって人に言われて納得できるものじゃないと思うの」
先生が何の話をしているのかは、すぐに分かった。さっき俺がした質問だ。
「だから、伊賀くんと八坂くんで見つけてみなさい。そんなに難しいことじゃないと思うわ」
口の中をゆっくりと醤油の味が満たす。じゅわり、と広がる味に妙に泣きたくなった。今度はちゃんと味がする。

「で、どうしたんだよ、伊賀」
放課後、俺は八坂を教室に呼び出した。誰もいない教室は、どこか異世界のようで、目の前にいる八坂でさえ、別の存在に見えそうだった。
「この前の、あれ、どういう意味だよ」
意を決して口を開く。手が嫌な汗をかいた。
「あれ?」
八坂が何のことだと言いたげに首を傾げる。それに思わず苛立った。
「どうして人を殺しちゃだめなんだって、言っただろ」
「あぁ、」
八坂が納得したように笑って、近くの椅子に腰かけた。
「お前に言うつもりはなかったんだよ、ごめん」
「どういうことだよ」
俺じゃない誰かなら言ってよかったとでも言いたげな言い方に苛々する。
「お前、結構感じやすいから。そんな風に悩んじゃうだろうなって分かってたし」
確かにその通りでなにも言えない。
「ほんと、あんなわけわかんないこと言うつもりなかった、ごめん」
八坂はいつも通りに笑って見せた。それで誤魔化してなんてやるつもりはない。
「じゃあ、なんであんなこと言ったんだよ」
手が嫌な汗をかいている。
「お前は、どう思ってんの?」
思い切って、問いかけると八坂が小さく笑った。
「俺は、正直、駄目な理由はないと思ってる」
思わず小さく息を呑んだ。そう言うだろうと予想していたはずなのに。
「言っちゃえば、罪になるからだろう? その考えでいくと罪にならないなら別にいい、ってことじゃん」
「逆にさ」
八坂が俺の方を向いた。
「伊賀はどうなの?」
逆光で八坂の表情がはっきりと分からない。それが無性に怖かった。それでも、なんとか口を開く。
「おれ、は」
こくり、と唾を呑みこんだ。
「正直、分かんないけど…家族とか、知り合いとか……少なくとも、八坂が死ぬのは、やだ」
なんでこんなことを言っているのか自分でも分からない。理由になってないのは一目瞭然だ。それでも、なぜか俺はこれが答えなような気がしていた。
「ふはっ」
八坂が笑って椅子から降りると、そのまま俺の肩をいきなり組んできた。思わず、びくりとしてしまう。
「な、なんだよ」
「いや、なんて言うか、伊賀っていいやつだな」
「はぁ?」
わけが分からない。でも、今俺の隣で笑っているのはいつもの八坂で、それに妙に安心した。
「お前の言うとおりかもな。自分の大切な人を殺されたくないから、他人を殺さない。それを許してしまったら、自分の大切な人が殺されることも正当化されるから」
八坂が「うん」と笑った。
「まぁ、及第点な」
「なんだそれ」
つられて笑う。そのとき、ふと、とある疑問が浮かんだ。
「そう言えばさ、」
八坂はいつも通りにへらへらと笑って「ん?」と俺の顔を見る。
「お前、殺したいほど嫌いなやつって誰だったの?」
俺が問いかけると、八坂はふっと笑った。さっきと違って温度のない笑顔。その目はあの時に見たのと同じ、全く光のない瞳で、呟いた。
「俺、かな」
背筋がぞくりと震える。なぜか鶏肉を噛んだときの生々しい感触と、じゅわり、と広がった醤油と油の味を思い出した。

 

≪講評≫
「どうして、ひとをころしちゃだめなんだろ」。そうつぶやかれた後の行は、「じわり、と口に含んだ鶏肉から、さっきと違う妙に油っぽい醤油の味が染みる。」と続く。難しい倫理的難問を、郷土料理の食感とからめるといった即妙が、文体のリズムにも形成されて全篇を通じ息づいている。会話のテンポ、シーン チェンジのスムーズさ、軽妙さが心地よく感じられる。ただ、この機知や軽さに幾分全体が流されているようにも思った。結びの部分「俺、かな」の後の3行だけでは、この作品一篇が屹立してこない。

萩原健次郎