【小説部門・優秀賞】不変の深海

渋谷教育学園幕張中学校・高等学校第1学年 齊藤里緒

不変の深海

「……入って、いいですか。」
マフラーに顔を埋めたまま私が年間パスポートを見せると、いつもと同じ受付のおばさんが面倒くさそうに頷いた。
軽く会釈して館内に入る。すると、水族館特有の、生温く生気を持った、まとわりつくような空気がぬるりと頬をなでた。未だになれないその感覚に鳥肌が立ち、私は思わず顔を顰める。
館内には、人っ子一人いなかった。今日は祝日であるというのに、この水族館はいつものように閑古鳥が鳴いているようだ。
入口正面の淡水魚の水槽を一瞥し、すぐに奥ヘと続く通路に視線を向ける。そこにも客らしき人影はなく、コポコポと水が流れる音だけが館内に響いていた。不意に人の気配を感じ、とっさに振り向いたが、背後には誰もいない。心なしか粘度を増した空気が体にまとわりつくのが嫌で、私は暗い通路を駆け出した。
淡水魚、熱帯魚、深海魚、クラゲ、蟹、鮫……。見慣れた、しかしよくは知らない様々な生き物達が私の後ろへと流れていく。視界の端で、何かの尾びれが手招きをするように翻った。その誘いを振り切るように、私は走る速度を上げる。
気がつけば、目的の部屋の前に到着していた。上がった息を整えながら、私は扉に手をかけ、そのまま押し開いた。
先ほどとは異なる、ひんやりとした空気が体を包んだ。生気を感じさせないそれに、私は思わず、ほう、と大きなため息を吐いた。ようやく、息ができる。
その部屋――円柱型の大きな水槽は、いつも通りの姿で私を待ち構えていた。丸い床の中央に進めば、上下左右全ての視界が水の暗い青色に満たされ、まるで自分が深海にいるかのような錯覚を覚える。
中に客が入り、どこを見ても魚の泳ぐ姿を眺められるようにと設計された巨大な水槽。どうしてこんなものがこんな辺鄙な水族館にあるのか見当もつかないが、私はここが好きだった。ここは他のエリアとは違い、あのどろりとした空気がないし、水槽が大きすぎるせいか水が循環する音が全くせず、私の息遣いが分かるほどに静かだ。
そして何より、――生物がいない。
何故かはわからないが、こんなにも立派な水槽を所持しているこの水族館は、その中に
何の生物も入れずにただ放置しているのだ。まさに宝の持ち腐れだ、と私は思う。もっとも、私はそんなところを気に入っているのだが。
私は床に腰を下ろし、そのまま大の字に寝っ転がった。改めて見上げる水面は、どういう仕組みなのかはるか遠くに感じる。人口灯が投げかけているのであろう微かな光をぼうっと眺めていると、自分の体が床を突き抜けて更に深海ヘと沈んでいきそうで、思わず身を起こした。つい先日と同じ行動を取ってしまった自分に苦笑する。
ここは、変わらないなあ。
私は穏やかな気持ちになっていた。どこか意識が微睡んできた頃、扉ががちゃりと音をたてて開いた。
「……唯、また来てたのか。」
「……邪魔しないでよ、ケン兄。」
ゆっくりと顔を入口ヘと向ければ、そこには予想通りの人物が立っていた。
佐久間健一。私の年上の幼なじみであり、この水族館の従業員の一人でもある。
「邪魔なのはそっちだろ。営業妨害じゃないのか、それ。」
「どうせ誰もいないんだから、いいでしょ。」
穏やかだった気持ちが途端に荒み、つっけんどんな答えを返してしまう。
ケン兄とは、私が中学に上がってからは疎遠になっていた。しかし、私がこの水族館に通うようになり、偶然再会したのである。本来なら喜ぶべき再会だったのだが、ケン兄は大学に上がってから変わってしまった。
「誰もいない、ってなあ……。そうだとしても、年頃の女子が自宅でもないのに床に寝そべるもんじゃないよ。ほら、服にホコリついてる。」
「……うるさいなあ。」
「うるさい、って言わなくてもいいだろ。ほら、立って。」
ケン兄が私の腕を引いて立たせてくれる。
「それにしてもお前、いつもここにいるよな。何もいやしないのに、楽しいか?」
そこがいいんだ、と言おうとして私は口ごもった。今のケン兄に私の気持ちを語ったとしても、どうせわかってもらえない。
昔のケン兄ならば、さっきも私を立たせたりせずに、一緒に寝そべってくれただろう。私がこの水槽を好む気持ちも、きっと察してくれたはず。
ケン兄は変わった。良識ある、立派な大人になってしまった。
「……ケン兄には関係ないでしょ。」
「……あっそ。あ、そういえば。今日から展望テラス開放してるんだよ。見ていけば?」
行きたくない、と思った。しかし、最近のケン兄は諦めが悪い。ここはおとなしく従っておいた方が早く済むだろう。
無言で首を縦に振った私に、ケン兄は満足そうに笑って、私を先導して歩き始めた。

「ほら、いい景色だろ?」
ケン兄に案内されたテラスは、水族館の屋上にあり、大海原を一望できた。生憎と今日は曇り空だから、最高とは言えないけれど良い景色であることに変わりはないだろう。
ふいに、強い風が吹いた。冷たくもべたつくそれに水族館内のあの空気を思いだし、私は顔を顰めた。
「……全然。さっきの水槽の部屋の方が好き。」
「何だよ。ひねくれてるな。」
「海風って嫌い。海に息を吹きかけられてるみたいで、気持ち悪い。」
私の答えに、ケン兄は苦笑した。
「お前の生き物嫌いも治らないね。そんなに生き物って気持ち悪いか?」
「……生き物は成長して、変化するでしょう。」
ケン兄は眉根を寄せ、首をかしげる。何を当たり前のことを、と目で問いかけてくる。
やっぱり、今のケン兄にはわからないよ。
「私はね、髪や爪が伸びる事も、背が伸びて胸が膨らんでいく事も、顔だちや言動が大人びていく事も、全部気持ち悪いって思うの。」
「……なんでさ。成長してるっていうか、生きてる証拠だろ。」
「……だから! それが嫌なの!」
もどかしくなり、思わず私は叫んだ。
小学校の時、クラスが変わる度に変化する人間関係が嫌だった。中学に上がり、徐々に大人ヘと変化していく自分の体が嫌だった。高校受験が終わった今、周囲の環境が大きく変化しようとしているというのに、それをあっさり受け入れて大人びていく友人たちが嫌だった。せっかく再会したのに、すっかり大人になってしまっていたケン兄が、嫌だった。
何故、皆そんなにもあっさりと変化を受け入れられるのだろう。どんな変化であっても、それは自分自身を不安定にするというのに。
「……ケン兄も変わったよね。」
私の低い声に、ケン兄はびくりと体を震わせる。
「まるで私の親みたいに、世話を焼いて。そりゃそうだよね、大人だもの。私の気持ちなんかもう理解できないし、しようとだってしないもんね!」
叩きつけるようにそう言うと、私は踵を返して駆けだした。鼻の奥がツンとしていて、視界が悪かった。
いつもなら必ずかかるケン兄の静止の声は、聞こえなかった。

それからの私は、一言でいうなら荒れていた。
ケン兄とケンカしたことで、どうにも水族館には行きづらくなってしまったし、学校に行っても気分が悪くなるだけで、心が穏やかになることがなく、苛立ちだけがひたすらに
募っていった。
両親に八つ当たりをしないよう、必然的に私は部屋に籠ることが多くなっていった。
カーテンを閉め、電気を消した部屋で布団をかぶったまま、私は思う。
あの、何もいない水槽が見たい。いつも変わることなく、生気を感じさせない、あの水槽が。
不変であるものが見たかった。ただひたすらに、穏やかな気持ちになりたかった。安心したかった。
ほんの一目だけでも、見てこようか。私がそう思ったとき、部屋の扉がノックされた。手紙が来てるよ、と遠慮がちな母の声がかかる。努めて明るい声を出して応え、手紙を受けとって検めた私は、そこに書かれていた差出人の名に、眉をひそめた。
「健一くんがね、唯にどうですかって、さっき持ってきたのよ。いつもの水族館でしょう? 行ってきたらどう?」
手紙には、ケン兄の名と、水族館に一泊することのできる企画ヘの案内が書かれていた。参加人数にもよるが、好きな水槽の前で眠ることができる、と。
心臓がどくん、と大きく脈打った。あの水槽の前でも、一晩を過ごせるのだろうか。
その時の私は、しばらく目にしていなかったあの水槽の前で一夜を過ごせるかもしれない、ということで頭がいっぱいで、ケン兄とケンカしていることや、水族館内の空気を自身が苦手としていることなどはすっかり忘れていた。そしてすぐに、行く、と返事をしてしまったのだ。

企画には、私を含めて十人ほどの人々が参加していた。参加者たちが思い思いに閉館後の館内を堪能している中、私は例の水槽を陣取り、そこから一歩も動かなかった。
「……あのなあ、確かに一泊することも大事なプログラムのーつだけど、夜の館内とか、いつもは立ち入り禁止のところとかの見学、行かないの?」
「行かない。空気、気持ち悪いし。」
「いやいや、せっかくだから見に行こうって。案内するから。」
ケン兄に腕をぐいぐいと引かれる。お節介、放っておいてくれ。そんな言葉が口をついて出そうになるのを、必死にこらえた。
このままでは、この水槽の静けさを堪能できない。ケン兄がここにいては、私の好きな水槽は完成しない。
そう思った私は、折れることにした。黙って立ち上がった私に、ケン兄は嬉しそうな声を出した。
「おお! やっと行く気になったか! 何が見たい?」
「……スタッフオンリーのとこ。この水槽のバックヤードが見たい。」
故意にたっぷりと間を空けて不本意そうに言ってみたが、ケン兄はただ、満面の笑みと
首肯を返してきただけだった。
「……はい、着いた。ここが、さっきの水槽の真上。」
ここに来るまでに通過してきた通路とは異なり、その部屋は、あの水槽の部屋と同じような冷えた空気に満ちていた。意識的に詰めていた息をふっと吐き出した私の目に、部屋の大部分を占める大穴が飛び込んできた。
それは、遠目から見れば大きな穴にしか見えないであろうというほど大きな水槽の口だった。内側から眺めていた時はどこまでも広がっていると錯覚してしまっていたが、バックヤードから見た水槽には、当然ながらふちがあった。しかし、それでも十分に大きい。
ふちに近づき、水槽の中を覗き込む。青みがかった水は底まで見通すことができず、じっと眺めていると引きずり込まれてしまいそうだった。その迫力は、ゆらゆらと微かに波打つ水面と相まって、水槽の口が大口を開けて私を待つ怪物のものであるかのような錯覚を与える。
「……っと、落ちるなよ。」
ケン兄に腕をつかまれ、私は我に返った。無意識のうちに、身を乗り出しすぎていたらしい。ありがと、と小さな声で礼を言うと、ケン兄はまた満面の笑みをこぼした。
「気をつけろよ。……にしても、いつ見ても馬鹿でかい水槽だな。」
「……魚、入れないの?」
私がふと尋ねると、ケン兄は困り顔で答えてくれた。
「いやな、こうも馬鹿でかいんだから、目玉になるようなものを入れなきゃ、と思うだろう? それで色々と提案がなされてはいるんだけど、いまいち決まらなくてね。」
そこまで言うと、ケン兄はふっと真顔になった。
「唯は、この水槽には空であって欲しいんだろ?」
私がこくり、と領くと。ケン兄は少し黙った後、ゆっくりと話し出した。
「俺な、今はこの水槽の担当なんだけど。……正直言って、この水槽はあんまり好きじゃない。」
ケン兄は慎重に言葉を選んでいるようだった。いつもは流れるようにはきはきと喋るのに、今はゆっくりと、本当にゆっくりと言葉を紡いでいる。
「だって何もいないだろう? それに、どんなに照らしたって結構な深さがあるからどうしても暗くなるし、魚がいないから水温調整機がなくて、他のエリアと比ベて空気が冷えてるし。水底が見えないのも嫌だな。化け物でも出てきそうで。……なにより、生物のいない水槽っていうのは、見ていて気持ちのいいものじゃない。俺は、なんとなく、死を連想する。」
ケン兄がちらりと私を見て、わずかに顔を歪めた。
「昔からお前が生物嫌いっていうか、変化に関係することを嫌ってるのは知ってる。……それでも、やっぱり子供がこんな水槽に惹かれるべきじゃないんだよ。」
「……なんでよ。」
「お前は変化が嫌いだといった。でも、いくら嫌っていようとお前が生きている限り必ず訪れるのが変化だ。不変に憧れてそれを探求したとしても、変わることから逃げられる人間なんていないんだよ。」
「……。」
「逃避するのは個人の自由だけどね。不変なんていうものも、実際には無い。唯は、この水槽を不変の象徴、みたいに思っているみたいだけど。……ここに、魚を入れる。うんと沢山ね。今決めたよ。」
私は弾かれたように顔を上げ、思わずケン兄を睨み付けた。意味が分からない。何故、そんなことをするのか。
「どうして!? なんで魚を入れるなんて言うの!? ケン兄は変わっただけじゃなくて、私が唯一穏やかな気持ちになれる場所をぶち壊しにするの!?」
「唯、ここはお前の水族館じゃない。ここのものが変化することを止める権利は、お前にはない。」
ケン兄の冷ややかな声に、私ははたかれたように言葉を詰まらせた。じわりと視界が滲み、とっさに顔を伏せる。
「……ごめんなあ。でも、やっぱりお前は、あんな死んだ水槽なんかに沈んでいるべきじゃないんだよ。」
先ほどの声音が嘘だったかのように優しい声で、ケン兄が言った。頭の上に掌の重みが乗る。顔を上げると、昔と変わらない、ケン兄の顔がそこにあった。
「一週間後、この水槽に魚を入れるよ。……見に来る?」
私は、頷いた。

一週間後、私はあの水槽の前に立っていた。隣には、ケン兄もいる。
一週間のうちに清掃が行われ、強い電灯が設置された水槽内は、以前のような深海のような暗さをひとかけらも感じさせなかった。水温が調節されたせいか、部屋の中の空気も他のエリアのように濃い生気を感じさせるものへと変わっている。
頭の隅で、気持ち悪い、ここから出たい、という思考がちらついたが、私はそれを無視した。ずっと愛してきたこの水槽の変化を、見届けたいと思った。
「魚、入るよ。」
ケン兄の声に顔を上げれば、水槽の遥か上方に大量の水しぶきが起こり、その中から無数の魚たちが溢れだして、すぐに思い思いの方角ヘと散っていった。あるものは尾びれを翻し、あるものは群れとなって規則的に泳ぎ、と、水槽の中は一瞬にして賑やかに、生を感じさせるものへと変わった。
う、と口から汚い嗚咽が漏れた。ケン兄がそれに気が付き、あっと声を出した時にはもう、私はあふれる涙を拭うのに必死だった。大切な場所が永劫に失われたことが、ただた
だ悲しかった。
ケン兄は私が泣いている間、黙って頭を撫で続けてくれた。

「まだ、変化が嫌い?」
「あたりまえでしょう。」
私が泣きやんで落ち着いた頃、ケン兄は私に飲み物を奢ってくれた。コーラの缶に口をつけながら、ケン兄は苦笑した。
「うーん、平気になるとはいかなくとも、この水槽が変わったら諦めがつくと思ったんだけど。」
「……嫌いなものは嫌い。これから先も、これはきっと変わらないよ。」
残念だ、とぼやくケン兄が、突然、ふと思い出したように言った。
「もう帰るだろう? 今日は晴れてるから、展望デッキで風に当たっていけば?」

数日ぶりの展望デッキは、そこそこの数の人で賑わっていた。今日から公開する例の水槽を目当てにした客が多いから、この場所にも人が流れてきているのだろう。
テラスの端まで歩き、手すりにもたれかかる。青空の下で見る大海原は、いつかの曇り空の時と比べると、格段に美しかった。水平線に一隻の船が消え、海鳥が空を舞う。耳を澄ませば、微かに波の音、人々の話声が聞こえる。ふわりと生ぬるい風が頬を撫でた。
いい風だな。
前の時とは全く異なる感想を抱いた自分に驚き、その変化に目を瞬かせる。
私の眦からこぼれた雫は、再び私の頬を撫ぜた風と同じ香りがした。

 

≪講評≫
生きものがまったく入っていない水族館の水槽が、好きだと言う。フラジャイル、こわれものとしての青春という心身の器を想像してしまうと作者の意図と違う かもしれないが、そう読めた。生きることの心の微細な動き、繊細で傷つきやすい生の断面。不変であれと願いつつも、次第に大人という次のステージに変化していく。「海風って嫌い。海に息を吹きかけられているみたいで、気持ち悪い。」と主人公はつぶやく。小説としての構えが幾分粗いのだが、それがかえって、 心身の瞬きをあざやかに見せている。

萩原健次郎