【小説部門・最優秀賞】ピンチサーバー

茨城県立並木中等教育学校第5学年(高校2年生) 富士登 湖雪

ピンチサーバー

「私、好きな人できた」
向かい合わせになった机の上、午後のあたたかい光が充満している教室の中に、その言葉はすぐに溶け込んだ。
大人っぽくて澄んだ声なのに、どこか子供っぽい響きを孕んだ声音。たぶん、こういうことを人に言ったの初めてなんだろうな。どんな顔をしていいのかわからなくて、あたしはとりあえず「そっか」と返した。
彼女の細くて白い指が、ギンガムチェックのナフキンをほどき始める。ぱか、と静かに開かれた蓋の中には「この子は大切な一人娘です」とでも言いたげな色とりどりのおかずが詰まっている。
知佳のこの告白は、突然のことで驚きはしたけれど、意外だとは思わなかった。知佳はあたしと一緒にバレー部に所属している。彼女は最近どこか上の空で、昨日も顧問に「ちゃんと集中して!」と注意されていた。何に関してもバカまじめな知佳のことだから、きっと何かあったんだろう、と思っていた。丁度その矢先のことだった。
「どんな人?」
だれ、とは訊かなかった。
うーん。知佳はハンバーグを箸で四等分にしながら、小さくはにかんだ。頬が紅潮している。好きな本や映画の話をするときも、彼女はいつも頬をほんのり赤くする。だけどそれとは、たぶん「好き」の種類もベクトルも違う。
フェイバリット、と、ラブ。
お気に入り、と、愛。
「優しい人……かな」
知佳は囁くように言って、そのままぱくんとハンバーグを食べた。お手本のような箸の持ち方。「こんなんで部活まで足りるのか」って思うような小さなお弁当。その正面に座っているあたしは、ふりかけのかかったご飯を五口くらいで食べ終えてしまった。
知佳はまじめだ。成績はいつも限りなく上のほうだし、我がクラス、一年D組の学級委員まで勤めている。さっぱりしたショートカットに眼鏡、という外見は、委員長という肩書によく似合う。
ポーカーフェイスとか、クールとか、知的とか、そういう無機質な言葉の体現のようだ
った彼女が、まさかこんな顔ではにかむ日が来るとは。あたしは妙な感慨に浸りながら、冷凍食品のからあげを箸で突き刺して、口に押し込んだ。
「このくらふのひほ?」
このクラスの人? というセリフが、食べながらしゃべっているせいでいびつに歪んだ。
彼女は黙って頷いた。なるほど。当たり障りない返事をしつつも、このクラスで優しい男子ね、と自分の頭は勝手に詮索を始める。誰だろう、いったい。
口をもぐもぐしながら考えていると、「この話やめようか」と知佳が言った。自分から言い出したくせに、と思ったけど、からあげを呑み込むのに忙しかったから、あたしは何も言わなかった。
きれいな指先。眼鏡に隠されたくるんとした睫毛。唇と頬のほのかな桜色。
知佳は、かわいい。
ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、と靴底が体育館の床を鳴らす。
二列に並んでのランニング。ふぁいっおー、の「おー」の部分をおざなりに繰り返しながら、狭いコートの中をぐるぐる回る。こういうことをしていると、ちょっとバカみたいだなと思ってしまう。外で走るのと違って景色が変わらないからだろうか。
ふと横に意識をやると、知佳は掛け声を出していなかった。あたしは彼女をひじでつついて、「こ、え」という形に口を動かした。
知佳はハッとして掛け声を出し始める。ざ、ざ、ざ、という足音が重なる中、彼女の「おー」は妙にはっきり聞こえた。
ランニングを終え準備体操をしていると、顧問がやってきて集合がかかった。バスケ部の固いボールの音。バド部の甲高い声。そういうのに負けないように、顧問は大きく声をはりあげる。
体育館のつやつやした床に、バレー部員十人分の影が映る。隣のバスケットコートからの振動で、びりびりと足元が揺れた。バスケットボールって、バレーボールに比べて固くて重くて、当たったらすごく痛そうだ、と心の片隅で思う。
「週末の練習試合のメンバーだけど」
今日の練習メニューを告げた後、顧問はひときわ大きな声で言った。今までそぞろだったあたしの意識は、ぐ、とこの場に引き戻された。試合、という言葉は、どこか不思議な引力をもっている。
まずは順繰りに二年生が名前を呼ばれた。そっか、もう三年生は引退したからな。わかってはいたけれど、今さら現実感が追い付いてくる。小さなバレーコートが妙に広くなってから、もうずいぶんと経つのに。
「それと、セッターに橘」
一瞬、息が止まった。
反射的に知佳の方を見た。彼女は「はい」と嬉しそうに返事をする。
知佳は一年生の中で飛びぬけて技術が高い。背も大きいし、選ばれるのは当然だ。そろそろ新人戦が近いから一年生も育てなきゃだしさ。心の中で必死に言い訳を重ねて、なんだか虚しくなった。何やってんだあたし。
「それから、みさお」
不意に名前を呼ばれて、ばっ、と顔をあげた。
はい、と答える声は、自分の声じゃないみたいだった。
「後半だけリベロ。よろしくな」
「はい」
おなかの底から声を出した。少しだけ、ほんの少しだけど、ほっとしてしまった自分を隠すために。
「とりあえず、次の試合の一年はこの二人に出てもらうから」
じゃあ対人、と顧問が言って、十人の人影がまばらに散った。ボールを取りに行く途中で、あたしは知佳の背中を「やったじゃん」と叩いた。わざとらしくテンションをあげたのが、気づかれてなければいいな、と思う。
「一軍じゃんか。すごいねえ」
「みさおだってすごいよ。リベロ競争率高いのに」
決して否定しないところが彼女らしい。
「リベロってさー、ひとりだけユニフォーム色違いでかっこいいよね」
あたしが言うと、知佳は「そうだね」と静かに笑った。
できるだけ新しくて固いボールをかごから選び取り、あたしたちはいつもの場所に立った。バレーボールをぽんと放って、手のひらで打つ。真ん中に当たるといい音が出て気持ちいい。
知佳が細い腕で受け止めたボールを、あたしがオーバーハンドで返して、彼女がまたそれを打つ。腕をまっすぐに伸ばして、アンダーで拾う。スパイクをアンダーで返す時の、ボールの勢いが殺される瞬間、直線で飛んできたボールが放物線に変わる瞬間が、あたしは好きだ。
対人では、アンダー、オーバー、スパイク、を交互に繰り返す。向かい合って行う淡々としたこの練習は、相手の表情がよく見える。
隠していたことを打ち明けたからだろうか、知佳は昨日よりもさっぱりした顔をしていた。 昼休みの告白をうけて、あの後、あたしは色々と話を聞いた。
コクんないの? と訊いた時、彼女は「うーん」と困ったように笑っていた。
「私、みさおと違って男の子と仲良くないからなあ」
嫌味なくこんなセリフを言えるのがうらやましい。あたしが返答に困っていると、「それに」と彼女は言葉をつづけた。「こういう気持ちってさ。言葉に出すと崩れちゃうような気がしない?」
「何それぇ」
「片想いのままのほうが、形としてきれいなままでいられる、っていうか」
「何言ってんの」
チキんなよっ、と言って、あたしは彼女の背中を叩いた。それって結局傷つくのが怖いだけじゃない? なんて、意地悪すぎる言葉は飲み込んだ。
ずるい、と思う。自分の気持ちを、こんなきれいなフレーズで表してしまうことだけじゃない。勉強も運動もなんでもできちゃうところも、普段は凛としているのに意中の人の前だとあんな顔になるところも、全部、
「みさおっ」
腕の変なところにボールが当たった。
てん、てん、てん、と弾みながら、ボールはあらぬ方に転がっていく。
慌ててボールを取りに行った。「ごめん」と駆け足で戻ると、「ううん。今の、私がうまく打てなかったから」と、彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「気ぃ引き締めてこー」
自戒をこめて声を出す。アンダーでボールを送ると、彼女の指がふわっとボールを受け止める。どこにいても同じように返ってくる、やわらかい軌道。彼女はトスがうまい。
あごから汗が落ちる。ボールが弾んだり、当たったりで、あちこちから聞こえるリズミカルな音。体育館を包む妙な熱気。
その中で、あたしの気分だけ、無造作にごろんと転がったままだ。
ベストの位置にやってきたバレーボールを、あたしはいつもより強めに打った。手のひらに斜めにぶつかったボールは、変な回転をかけながら、勢いよく飛んだ。
練習試合の日。
他校の体育館のアウェイ感には、いつになっても慣れない。レギュラー組はコート内で軽いパス回し。それ以外のあたしたちは、コートの外で並んで、ドリンクを作ったり応援の垂れ幕を持ったりしている。
試合の時は、できる人とできない人の間に、文字通りの境界線がある。コートに入れる人と入れない人。その区別が一番はっきりついてしまう。それってすごく残酷なことなんじゃないか、なんて、ユニフォーム姿でコートに立つ知佳を見ながら思う。
うちの学校のユニフォームは、白地に黒と赤。すらりとした知佳にはそれがとてもよく似合っていた。一方あたしは、どこか後ろめたい気分で、上に着たジャージを脱げないままでいる。知佳の前で「かっこいいよね」とはしゃいだ黒地を、隠してしまっている。
彼女はいつも隣にいた。背の高い知佳が横断幕をもつと、背の低いあたしよりも少し高い位置に手があった。練習試合の時はいつも一緒に応援して、二人して張り合うように声を出すせいで、よく喉ががらがらになった。
今日は、ひとり。
試合まではまだ時間がある。あたしは顧問に「ちょっとトイレ行ってきます」とことわ
って、少しの間だけ、体育館を出ることにした。先輩に混じってコートに立っている知佳を見ていたくなかった。劣等感とか嫉妬とか、そういうどす黒い感情に押しつぶされそうだったから。
喧騒が離れていく。薄暗い廊下をとぼとぼ歩いて、自分を落ちつけようと深く呼吸をする。
眼鏡の奥にある静かな瞳。高い背と聡明そうな顔立ち。勉強も部活もそれなりにこなして、絵にかいたような優等生である彼女の、不自然なほどかわいらしい恋。私、好きな人できた。そう言ったときの、普段は決して見せなかったあの表情。
知佳はあたしよりも、いつも、少しだけ早く先に行ってしまう。応援席でひとりのあたしはあんなに心細かったのに、コートの上でも、あたしがいなくても、知佳は凛としていた。
そこまで考えて、あたしは、自分の感情の核に触れた気がした。
寂しいんだ、すごく。
ピー、と笛の鳴る音が聞こえた。急いで体育館に戻ると、すぐに試合が始まった。
最初のサーブはこっちからで、先輩がお手本のようなサーブを決めたが、あっさりと打ち上げられた。セッターがジャンプトスをして、流れるようなスパイク。急角度で入ってきたそれは、反応する間もなくばん、と床にぶつかる。
鋭い。
みんなの構えが、急に固くなったのが分かった。
次のサーブは相手チームから。ボールは矢のようにまっすぐ飛んできて、取ろうとした知佳の左腕に当たり、大きく打ちあがった。
カバーカバー! 隣の子が大声で叫ぶ。どうにかして拾い上げたボールは、アタックには不十分で、アンダーで返す形になる。チャンスボール! 相手が声をあげる。
え、てか強くない? これあたし後半出るんだよね?
運動時とは違う汗がじわりと出た。リベロの黒いユニフォームが、ずん、と重さを増した気がした。
相手はネット際にトスを上げ、クロスアタックをしかけてきた。ボールは線上めがけて強く打ち付けられ、ばしん、と無情な音が聞こえた。
「アウト!」
知佳が祈るように声をあげた。どきどきするような間のあと、審判はピッと短く笛を吹いた。空気が少しだけ緩む。ラッキーラッキー、と声がする。
二対一。かろうじて優勢だった状況は、試合が進むにつれ相手のペースに巻き込まれ、相手が二十点を取るころには五点差がついていた。
そのままの流れで一セット目をとられた。二セット目は無得点のまま三連続で点を入れられて、チームに蔓延る緊張感はどんどん増していった。知佳は粘り強くボールに食いついていたが、取れない場所に落とされればそれまでだった。声出せ声! 顧問が怒鳴るよ
うに言った。
四回目の相手からのサーブ。ボールは選手と選手の中間の位置に落ちていった。極度の緊張感の中、はやる気持ちのまま両選手が動き出し、
二人は顔からぶつかった。
受け止められなかったボールが床に投げ出された。
「知佳!」
二人の選手がコート上にうずくまっていた。試合は一時中断となり、顧問を含めた応援組がコート上に押し寄せた。
ぶつかったのは知佳と二年生だ。知佳のほうはまだ平気そうだったが、二年生は正面からぶつかったらしく、鼻を強く手で押さえていた。白いユニフォームの首元が鼻血で汚れていた。狼狽はすぐにチーム中に広まり、普段は冷静な知佳も平謝りを繰り返していた。
心臓がうるさいくらい鳴っていた。もしかして、と思った瞬間、顧問はあたしに視線を合わせた。
「みさお、出れる?」
声を出すことができずに、顔をうごかして頷く。
知佳とぶつかった二年生は「たいしたことないです」と言いながらも、医務室に連れていかれた。
思ってもみなかったタイミングで、急きょ右後ろの位置に入る。体があったまっていなかったので、上着を脱ぐと薄寒かった。
次のサーブも相手から。すでに四点を取っているから、これで五回連続だ。
相手の選手は派手なジャンピングサーブでボールを打った。打ち出された球はまっすぐこっちに飛んできて、やばいやばい、と思うけれど、体がうまく動かない。
アウト! と前に立っていた先輩が言った。その声で我に返ると、ボールが線を五十センチほど超えてバウンドしたのが見えた。
向こうのミスでようやくまわってきたサーブ権。右後ろの選手がサーブを打つことになるから、次は――あたしだ。
緊張で肩がこわばる。体が硬い。審判がボールを投げてくる。いつもならもっと自由に体が動くのに。受け取ったボールを二回バウンドして、構える。
拍動が速い。ナイッサー、という声が、遠くから降ってくる。
「みさお」
深呼吸を繰り返すあたしのことを、知佳が振り返った。不安で仕方なかったはずなのに、まっすぐ見つめられながら「大丈夫」と言われて、ふ、と緊張がゆるんだ。
一番心強い人から、一番心強い言葉をもらえた。
あたしは覚悟を決めて、もう一度ボールを二回ついた。息を吐ききってからボールを放り、打つ。
が、手に当たった瞬間直感的にわかった。
届かない。
ボールはネットにめがけてまっすぐ飛んでいく。入れ入れ入れ入れ、超えろ超えろ超えろ超えろ、心の中で何度も繰り返す。
強くこぶしを握る。
ボールはネットのてっぺんに引っかかった。お願い超えてボール超えて、必死に祈りながらボールを見つめていると、ボールはゆっくりと奥に傾き、すとん、と落ちた。
相手チームは動かない。
ピーッ、と長く笛が鳴る。入った? 入ったのか? 自分でもよくわからないままでいると、こっちのチームからわあっと歓声が上がった。
「すごいよみさおめっちゃすごい!!」
知佳があたしをぎゅっと抱きしめてくる。それを筆頭にいろんな先輩に囲まれるけれど、実感は浮かんでこない。
「もう一本!」
だれかが声を張ると同時に、ボールがまたこちらに放り投げられた。ちらりと顧問を見ると、肯定するように頷かれて、そこで初めて喜びが沸き上がってきた。
ボールをついて、顔の前に構える。
次のサーブは、ちゃんとネットを超えられる気がする。