【優秀賞】「スカシユリの花」

【優秀賞】(滋賀県立石山高等学校第2学年 髙岡祥乃)

「スカシユリの花」

「ああもう!わかんないよぉー」
そう言って、目の前の友人がシャープペンシルを握りしめたまま机に突っ伏した。
「ねえ、藪君。ちょっと休憩しよう?」
「駄目だ。まだ三問も解いてないだろ」
「えー」残念そうな声を上げながらその友人、笠井彩人は部屋に敷かれた緑の絨毯の上に寝転がった。
今日は夏休み真っ只中のある日。今、俺は笠井の部屋で笠井と一緒に夏休みの宿題をしている最中だ。
「起きろ。そして早くこの問題を解け」
「藪君って、先生みたいなんだぁ」
笠井はしぶしぶ起き上がって、再び問題集と向き合った。

「おかえりなさい。篤君」
家に帰ると、最近見慣れた女の人が笑顔で俺を迎え入れてくれた。奥から漂ってくるおいしそうな匂いが鼻をくすぐる。
父の靴はない。きっと今日も残業だ。
俺はぼそりと「ただいま」と返事をした。
食卓の上では、こんがりときつね色に焼けた餃子がゆらゆらと湯気を立てていた。
「今日は篤君の好きな餃子を作ったの。ちょっと形は悪いけど、おいしいのよ」
確かに、皿に盛りつけられた餃子は少しいびつな形をしていた。それでも、相手の皿の餃子を見てみると、俺にはなるべくきれいにできたものを食べてもらおうという気持ちがありありと見て取れた。
俺が餃子を食べるのを見届けて、女の人は聞いた。
「おいしい?」
「おいしいです」
俺が答えると、女の人は嬉しいような少し寂しいような微妙な顔をした。
「ありがとう。…ねえ、篤君。私には敬語じゃなくてもいいのよ。私のこと、『お母さん』って呼んでもいいのよ」
何度言われたかわからない言葉に、俺は黙り込んでしまった。
この女の人は父の再婚相手、つまり俺の新しい母だ。しかし、俺は『新しい母』という存在を受け入れることができないでいた。
俺は、たった一人の大切な家族である父を、この人に取られてしまったという感覚さえ抱いているのだ。
「血は繋がってなくても、私たちはもう家族なのよ。そんなに固くならないで」
女の人の声は優しかった。初めてこの家に来たときから変わらない優しい声だ。
「私、篤君のお母さんになりたいの。篤君のことも、篤君のお父さんと同じくらい好きよ」
「じゃあ、清美さんは父さんや俺のどこが好きなんですか」
そんな言葉が口を衝いて出た。そのまま俺は機関銃のようにまくしたてた。
「父さんの何が目当てなんですか。どうして好きって言えるんですか。本当に好きなら、父さんを、俺たちを一生手放さないって誓えるんですか」
そこまで言って、俺ははっとした。
今、初めて気付いた。俺には実母のことが大きなトラウマとなっていたのだ。
父方の祖母の話によると、俺の実母は相当な男好きだったらしい。俺を身ごもったことを受けて父と結婚したものの、俺が生まれるとすぐに、子育てもしないで、またたくさんの男と遊び始めた。それを父が咎めたところ喧嘩になり、家から出て行った。最後に一言、幼かった俺に「あんたなんか産まなければよかった」と吐き捨てるように言って。
俺は絶対に忘れない。あのときの父の悔しさと悲しさと怒りの入り混じった苦しそうな顔、そして幼くして味わったやるせなさを。
俺にとって女は信用ならない存在だった。
女の人こと清美さんは困った顔をして俺を見つめていた。
俺は、なんとなく気まずくなり「ごちそうさま」と小さな声で言って食卓を後にした。

次の日も俺は笠井の家で宿題をしていた。
「藪君、そんなに勉強ばっかりしてて疲れないの?」
「別に。そんなことより、お前に早く宿題しろと言う方が疲れる」
「藪君、お母さんみたいなことも言うね」
そう言って、笠井は昨日と同じように机に突っ伏すのだった。
そのとき、部屋のドアをノックする音が響いた。
「彩人、入るわよ」
笠井の母親だ。どうやらジュースとお菓子を持ってきたらしい。
「進み具合はどう?」
机にジュースの入ったグラスを置きながら、笠井の母は俺たちの手元をのぞきこんだ。
「あら、藪君って勉強できるのね。もうあとちょっとで終わりじゃない。それに比べて、あんたは今まで藪君と何してたの。ぜんぜん進んでないじゃない」
笠井の母はパコンと笠井の頭をたたいた。
俺と笠井の進捗状況の差は歴然だったのだ。
「お母さん、痛いってば。ちゃんと宿題するから許して」
「必ずよ?」と念を押して、笠井の母は立ち上がった。「藪君、彩人の監視よろしくね」そう言って彼女は、俺に向かって器用にウインクをして部屋から出て行った。
その様子を見ながら、笠井はふくれっ面で唸っていた。
ほほえましい母子の会話を前にして、俺は少しむずがゆい心地がした。
それからしばらくして、俺たちは少し休憩をとることにした。
「ねえ、藪君。聞いてほしいことがあるんだけど」
机から勉強道具をのけた直後、笠井は俺に改めて向き直った。ずっと言いたかったことがあるらしい。
宿題中とは打って変わって笠井の眼が異様に輝いている。こういうときは、決まって趣味の草の話をするのだ。
「藪君、海、行こうよ」
「海?」
予想外の言葉に、俺はすっとんきょうな声をあげた。
「なんでまた、海なんかに」
「俺、見たい花があるんだ」
笠井は声を弾ませて言った。
やはり俺の予想は外れてはいなかった。海に咲く花とは、いったいどんな花なのだろう。
「俺、スカシユリを見たいんだ!」

スカシユリは漢字で書くと「透百合」。花弁の付け根の部分が細く、花弁と花弁の隙間から向こうが見えるのでこの名前がついた。園芸種としても好まれている。海に行く道中、電車の中で笠井は俺にそう説明した。笠井が俺を海へ誘ってから五日が経っていた。
「園芸種なら、お前の家で売ってるだろ」
笠井の家は花屋を営んでいるのだ。
「藪君はわかってないなぁ。自生してるのを見るのがいいんじゃないか」
笠井はふふんと得意げに鼻を鳴らした。
「彩人はちょっと変わってるからね」
そう言ったのは笠井の祖父だ。
俺と海へ行こうと言った日の夜、笠井が笠井の母にその旨を伝えたところ、中学生だけで海へ行くのは危ないから駄目だ、と釘を刺されたらしい。そこで、笠井の祖父に白羽の矢を立てた。
笠井の祖父はまだ若く、足腰もしっかりしている。笠井と二人だけで海へ行くことに少し不安があった俺にとっては頼もしい存在だ。
「君は、藪君といったかな」
初対面にもかかわらず、笠井の祖父は俺の名前を知っていた。どうやら笠井から俺の話を聞いているらしい。
「下の名前はなんていうんだい」
「篤です」
「そうか。では、今から君のことは篤君と呼ぶから、篤君は私のことを昭秋さんと呼びなさい」
「えっ」
俺は戸惑った。今まで人から「○○と呼びなさい」と言われたことはなかったのだ。
「返事は『はい』だよ。篤君」
「…はい」
答えると、昭秋さんは満足そうに「よろしい」と言って笑った。
「篤君は、彩人と竹の花を見に行ったんだよね。あのことを彩人はすごく喜んでいるよ。一緒に行ってやってくれてありがとう、篤君」
五月、俺は笠井と二人で百二十年に一度しか咲かないというマダケの花を見に行ったのだ。笠井とはそれから仲良くするようになった。
「はい、どうも…」
俺はなんとなく答えることしかできなかった。
その後も、昭秋さんは草花の話や昔の話、時々家での笠井の話なんかをしてくれた。その話を聞いていると、つくづく笠井家は暖かいんだなと思った。
そして、そんな笠井家が少し羨ましいとも思うのであった。

電車を降りてすぐ、駅のそばの食堂で昼ごはんを食べた。そこから歩き続けること約三十分。背の高い草むらの向こう側に、青く輝く海が見えた。
「海だあ!」
笠井はそう言うや否や、眼を輝かせて全速力で駆けだした。
一方の俺は炎天下を歩き続けたせいで、もうヘトヘトだった。いったい、笠井の元気はどこから溢れてくるのだろう。
「篤君、無理はしなくていいから水分補給はちゃんとしなさい」
昭秋さんはそう言って、俺にミネラルウォーターを差し出した。
浜まで下りると、笠井は既に浜辺の植物に夢中だった。草の名前を連呼しながらあっちやこっちで写真を撮っている。
浜には俺たち以外誰もいなかった。笠井のはしゃぐ声は、発せられた瞬間に波の音にかき消されていく。街の喧騒の中で暮らしてきた俺にとっては、とても静かな場所だった。
「ここは、俺たちが来てもいい所なんですか」
俺は疑問に思って昭秋さんに聞いた。
「整備されていないだけで、立ち入り禁止の看板なんかがないから、土や植物を採ったりしない限り大丈夫だよ」
「私たちも行こうか」笠井の方へ歩き出した昭秋さんのあとに、俺もついて行った。
俺たちが笠井の近くまで行くと、笠井は嬉しそうにこちらへ駆けてきた。
「おじいちゃん。やっぱりちゃんと整備してあるビーチよりも、草がいっぱい生えてるこっちの方がいいね!」
笠井は満足気に言った。
「ところで彩人、スカシユリはあったかい」
笠井は思いだしたように「あっ」と声をあげた。まったく、しっかりしてほしいものだ。
「じゃあ、三人で一緒に探そうか。それでもいいかい、篤君」
そのために来たのだから、俺にいいも悪いもない。
「はい」
俺たち三人は、スカシユリの捜索に取りかかった。

それから一時間、俺たちは辺りを入念に探したのだが、それらしきものは見つからなかった。
「本当に、オレンジの花なのか?」
俺は滴る汗をぬぐいながら笠井に聞いた。
「そうだよ。結構背丈もあるから、あったらすぐにわかると思うんだけどなぁ」
笠井は草をかき分けながら答えた。
「彩人、あんまり奥へ行って見失うといけないから、その辺にしておきなさい」
どんどん草むらの中へ入っていく笠井に、昭秋さんが言った。
「少し休憩してから、また海の近くから探してみようか」
昭秋さんの言葉に、俺たち二人は疲れた様子で頷いた。
気の利いたことに、昭秋さんはいくつかのおにぎりを作ってきてくれていた。
もうお腹が空いて仕方なかった俺は、おにぎりに勢いよくかぶりついた。
「味はどうだい、篤君」
「すごくおいしいです」
こんなにおいしいおにぎりは生まれて初めて食べた気がする。思わず俺は二つ目のおにぎりに手を伸ばした。
「こんなじじいの握った下手くそなおにぎりでも、それだけ喜んでくれて嬉しいよ。篤君のお母さんのほうが、ずっと上手に握るんじゃないかい?」
俺は食べるのをやめて考え込んだ。
俺に母と呼べるものは存在するのであろうか。俺にとっての母の味とはどんなものなのだろうか。
「どうかしたのかい」
しばらくして、昭秋さんは怪訝そうに俺に聞いた。どうやら俺は、すごく難しい顔をしていたらしい。
俺は、おもむろに口を開いた。
「俺の母は昔、家から出て行きました。それで、父の再婚相手はあんまり料理が得意じゃないみたいです」
俺はこの間の餃子を思い出していた。清美さんの餃子は確かに、とても上手だとは言えない出来だった。
でも、あの餃子はおいしかった。あのときは何とも思わなかったが、あれがいわゆる真心のこもった味なのかもしれない。
「そうか。なんだか悪いことを聞いたね」
昭秋さんは申し訳なさそうに言った。
「いえ、いいんです」
今の俺はなぜか、とても優しい気持ちでいた。
ふと笠井の方を見ると、笠井はどこか浮かない顔をしていた。いつもの輝いた眼が曇っているように見える。
「笠井、どうしたんだ。気分でも悪いのか?」
聞くと、笠井はぶんぶんと首を横に振った。
「なかなか目当てのものが見つからなくて、落ち込んでいるんだろう?」
今度は昭秋さんが聞いた。すると笠井は、笠井には似合わない落ち込んだ声で言った。
「もうスカシユリの花は見られないかもしれない」
「どうしてだい?」
「だって、もう八月なんだもの」
笠井が言うには、八月にはスカシユリの花の時期は終盤に差し掛かるようだ。さっき、既に花びらの散ったものを見たという。
「でも、終盤とはいえまだ八月は花の時期なんだろ。咲いてる可能性はあるんだろ」
「まだ日も高いことだし、もう少し三人で探してみようね」
俺と昭秋さんの言葉に、笠井はこくりと頷いた。
それを見て、俺は立ちあがった。
「じゃあ、さっさとそのおにぎりを食べろ。スカシユリの花、探しに行くぞ」
笠井は驚いたように俺を見上げて言った。
「そうだね。ありがとう、藪君」
笠井の眼は、少しばかりいつもの輝きを取り戻していた。

それからまたしばらく捜索を続けたが、一向に目当ての花は見つからない。
それを見かねて、昭秋さんは言った。
「もう少し遠くまで行こうか」
俺たちはずっと、浜の入り口の近くを探していた。勝手に遠いところへ行って、他の二人とはぐれてしまうといけないからだ。
「わかった」
そう言って、笠井は草の中を走り出した。無意識に俺もそのあとを追った。「あまり遠くに行きすぎるんじゃないよ」背後から昭秋さんの声がかかった。
足元は砂地でしかも草の中だというのに、笠井はどんどんスピードを上げていく。とうとう、俺はついていけなくなった。
そのまま走っていると、前方に笠井の背中が見えてきた。立ち止まっているようだ。
「何か見つけたか」
俺はそう短く言って、笠井の見ている方を向いた。そして、息をのんだ。
その辺り一面にオレンジ色のきれいな花が嬉々として咲いていた。全ての花が空を目指しているかのように上を向いて咲いていた。
潮風が吹き抜ける中、俺たちはただただ、ぼうっとそれを眺めることしかできなかった。
どれほど眺めていたのだろう。それほど長い時間ではなかったはずだが、俺には異様に長く感じられた。
「二人とも、こんなところまで来ていたんだね」
向こうから昭秋さんが小走りでやってきて、俺たち二人は我に返った。
「おじいちゃん、見つけたよ!」
笠井が嬉しそうに叫んだ。
昭秋さんはスカシユリの群生を見て、目を丸くした。
「すごいねぇ…私もこんなのは初めてだよ」
そう言って、昭秋さんはまさに言葉にならないといった様子で、ゆっくりと首を横に振った。
「俺、この風景を絶対忘れないよ。藪君と見た、このスカシユリたちを」
笠井は今までで最高に輝いた眼をして、俺にそう言ったのだった。

帰りに、家の花屋へ寄ってほしいと笠井に言われた。何だろうと思って店先で待っていると、笠井は売り物であるピンク色のスカシユリを持ってきて俺に差し出した。
「お母さんに言って、貰って来たんだ。藪君にあげるね。お土産だよ」
俺にはわけがわからなかった。海でたくさんのスカシユリを見た。それで十分じゃないか。
「スカシユリの花言葉の一つに『親思い』っていうのがあるんだ。藪君にぴったりだと思わない?」
「どうして」
「母さん」と呼ぶことのできない俺が、どうして「親思い」だと言えるんだ。
「だって、藪君ってすごくお父さん思いじゃないか」
そういえば前に一度、笠井に父のことを話したことがある。男手一つで俺を育てる父は俺の尊敬する人だ。たった一人の、俺が心から信頼できて大切だと思える存在だ、と。
俺は笠井の言葉に納得して、差し出された花を大切に受け取った。
「花言葉なんて、笠井は女子みたいなことに気を使うんだな」
そう言って、俺は笠井に向かって笑ってみせた。

「おかえりなさい、篤君。その花、どうしたの?」
今日も、家に帰ると清美さんが笑顔で迎えてくれた。玄関には珍しく父の靴があった。
俺は、ちらとスカシユリの花を見た。
俺の信頼する父が、この人を選んだんだ。今度こそ間違いのないように。
俺はスカシユリの花を清美さんに差し出した。そして、はっきりと言った。
「ただいま、母さん」

≪講評≫作家・津村記久子氏
危なげない筋運びで、文章はとても安定しているように思えます。内容は優等生的で、大きな欠点はないのですが、もしかしたらもう少し、偏りや逸脱、執拗さがあっても良いかもしれません。自分が書くならという前提で一例をあげると、清美さんの作った餃子がどうだめだったのかを、もう少し書き込むであったりとかです。ちょっと人に見せるには抵抗がある、というぐらいの自分のこだわりを前面に押し出した作品を書いてみると、この方なりの「書きたいこと」と「作品の完成度」のバランスが見えてくるのではないかと思います。