2015年度 大谷大学文藝コンテスト総評

 

2015年度の大谷大学文藝コンテストには、北は岩手県から南は沖縄県まで、全国71の高校から489篇のエッセイと162篇の小説が寄せられた。昨年度の応募数は、エッセイが266篇、小説が75篇。両部門とも一気にほぼ2倍に増えたので、作品を受け取った側は1月15日の締切後、2ヶ月近くにわたって大混乱となった。誤解のないよう断っておくが、それはもちろん、興味と高揚と感心とに満ちた実に楽しい混乱状態である。ありていにいえば、応募作の整理・選考を担当する大谷大学の教職員は、まだ早春だというのに連日うれしい汗を流しつづけたわけである。
新しい作品を読みはじめると、その1篇に込められた筆者の思いや考え、また構成や字句の的確さや表現上の工夫などを冷静に観察・評価しようと努めながらも、つい面白さに引き込まれて、いつのまにか読み耽っている。素朴に作品にのめり込んでしまう。選考の過程でそのような事態がしばしば生じた。それはこちらの自覚の乏しさにもよるが、第一の要因は、応募作品の多くに文章としての力があったことだろう。それゆえ力作を寄せてくれた高校生諸君に、審査員としてよりまず一読者として、心からの謝意を述べたいと思う。幾度も幾度も幾度も、ほんとうに我ながら呆れるほど何度も、楽しませてもらった。感心することも多かった。
各校で応募作をとりまとめてくださった先生方も、このような思いを享受してくださっていたなら、と願わずにはいられない。通常の業務だけでも御多忙な先生方がこの役得(!)によっていささかなりとも御負担を軽くお感じになれば、などと願うのは虫のいい期待ではあるが。ともあれ、高校で国語教育や文章表現指導の最前線に立っておられる先生方の御協力と御尽力なくして、このコンテストはありえない。この場を借りて先生方に厚く御礼申し上げるとともに、新たな才能の発掘に今後ともお力添えを賜るようお願いする次第である。
では、今回の応募作について気づいたことを述べていこう。少々辛口の評言になりそうだが、これも期待の大きさゆえの弁とお許しいただきたい。
まず、エッセイ部門。題材の面では学校に関わるものが圧倒的に多かった。次いで多く取り上げられていたのは友人や家族である。友人もそのほとんどが学校で育まれる人間関係と考えるならば、高校生にとっての学校の比重の大きさを改めて反映する結果となった。受験・定期試験・授業・予習復習その他の勉強、スポーツ・音楽・美術・文学その他の部
活や多種多様な委員会、運動会・遠足・旅行・文化祭・入学式や卒業式などの行事、給食・弁当・間食といった食物談義と食べる光景、登下校の際の見聞や体験……。元気のいい高校生活は、読んでいて気持ちのいいものだ。ちょっと変わった分野の部活や、特色のある学校行事などにも、興味を引かれることはたしかにある。ただし、それで読み応えのある作品が成立するかというと、答えは否である。それだけでは物足りないのだ。求められているのは記録や作文ではない。エッセイである。自立した文学作品である。読者は国語の先生でも家族でも友人でもない。いや、実際に親身になって読んでくれるのは国語の先生や家族や友人かもしれない。しかしそういう身近な人の顔を思い浮かべ、その人に宛てて手紙を書くように作品を書いてはならない。不特定多数の未知の読者を想定して書かなければならない。自分のことを全く知らない人にもきちんと理解してもらえるように、正確かつ明快に書かなければならない。そのためには語彙や文法などの誤りがないように注意することが大切なのはいうまでもないが、内容の展開が自己矛盾・自己満足・自己憐憫・予定調和に陥っていないかどうかも、丹念に点検する必要がある。エッセイは自由な文章ではあるが、それだけに筆者の人格・知性・品性・教養などが如実にあらわれてしまう文藝ジャンルでもある。いいエッセイを書きたいと考える人は、自分に甘えを許してはならないと思う。
次に小説部門。今回もファンタジーやSFの範疇に属する作品が多かった。鮮やかなイメージを駆使して非現実世界の映像美をくりひろげる作品は楽しいといえば楽しい。だが、残念な点もあった。それは応募されたファンタジーのなかに、既成のマンガやアニメーションのイメージに依拠する作品が目立ったことである。リアリズム小説、ミステリー小説なども含めて、名作の換骨奪胎というべき作品も散見された。具体例の一端を挙げると、百田尚樹『永遠の0』、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』、アガサ・クリスティ『アクロイド殺人事件』(あるいは谷崎潤一郎「私」)、中島敦「文字禍」といった小説から、プロット・トリック・イメージの核心部分を借用して制作された作品が、今回は何篇も見出された。新しく書かれる文学はすべて過去の文学のパロディーだという考え方は別に珍しいものではない。だから古今東西の多くの文学にアンテナを向け、そこから旺盛に養分を吸収し、それを自己の創作の糧とするのはいわば文学の王道である。しかし一篇の要の部分をとってきて、そのまま自作の要の位置に据えるのはいただけない。そこには何の創意工夫もないからである。そのようにして作品を完成させたとしても、それはあくまで自己満足の圏内での「完成」であって、本質的な意味では筆者は未だ何も書きはじめていない。
先にエッセイについても述べたように、このような甘えを自分に許しているようでは、アマチュア作家としても成長の見込みは乏しいだろう。
歴史小説や外国を舞台にした小説についても一言述べておきたい。これらは題材の選択自体に筆者の格別な意欲と見識が認められるので、来年度以降も大いに歓迎したいところではある。だが、出来栄えは玉石混淆であった。なぜ玉と石とに運命が分かれたのか。筆者の文学的才能といったものを持ち出すと収拾がつかなくなるので、便宜上、今はこれを措く。私見では、作品の成否を決めたのは筆者の知識の有無である。過去の時代や外国を描くにはそれ相応の知識が要る。既存の曖昧な知識だけで設定や描写や構成を行おうとすれば、必ずどこかで破綻する。小説を書くためには緻密で信頼に足る知識がもっともっと必要なのだ。いろいろ調べて自分の知識の倉庫を十分に満たしてこそ、やっと作品の構想を練る段階に入ることができる。これは、実は歴史小説や外国を舞台にした小説に限ったことではない。現代日本の高校生の日常生活を題材とするのでなければ、小説を書くには何かを調べる作業が不可欠のはずだ。SFの場合は、恐らく歴史小説以上に綿密かつ専門的な事前調査が必要だろう。
もう1つ、残念なことがある。規定の字数を守っていないために早い段階で選考対象から外さねばならなかった応募作品が少なくないことである。エッセイ部門は「2,000字以内」。小説部門は「8,000字以内」。ならば2,000字ほどの短い小説も規定違反にはならないだろう、と思い込んでいる人がいるのかもしれない。しかし、「8,000字以内」と指示された場合はその字数になるべく近い地点まで進めた上でペンを置くのが常識というものである。事実、寄せられた小説のうち佳作のほとんどは、8,000字ギリギリのところまで展開を膨らませている。8,000字の小説と2,000字の小説とではジャンルが異なるといってもいい。同列に扱うには無理があるのだ。そういうわけで、4,000字以内の小説のなかにもハッとするような秀作があったのだが、審査の次の段階に送ることはできなかった。先に残念といったのはそういう意味も含んでいる。次回の応募を考えている人はこの点に留意してほしい。

國中 治