2016年度 大谷大学文藝コンテスト総評

今回も大勢の高校生が力作を応募してくれた。エッセイ部門367篇、小説部門230篇。ありがたいことである。3段階の審査を経て、両部門とも10篇ずつの受賞作を決定したが、選外となった作品の中にも佳作が少なくなく、高校生のみずみずしい感性と躍動感あふれる自在な筆致には今回も感嘆せずにはいられなかった。御多忙の中、貴重な時間を割いて手続きの労をとってくださった各校の先生方にも厚く御礼申し上げたい。
以下、今回の応募作品を概観して、私たちが気づいたこと、注意してほしいこと、望んでいることなどを述べていこう。
まずエッセイ部門。コンテスト創設以来たびたび論議の的になるのは、一口にエッセイといってもこれは実際には論説文から身辺雑記まで多様な文章を包含するジャンルなので、応募作品の内容や文体も多岐にわたること。そこで審査の前に論議となってしまう。硬軟さまざまな文章の価値を単一の尺度で測ることができるのか、そもそもそのような統一基準は存在するのか、高校生が対象なのだから高校生にふさわしい基準を設定すべきではないのか、しかし「高校生にふさわしい」などという考えの適用は多くの新しい才能を既成の価値観で裁断することになりはしないか、といった具合で論議は尽きない。結局、今回も統一基準は定めず、内容や文体のみによる優劣の判断(たとえば理路整然とした主張がなされている論説文を軽快で自由な身辺雑記より上位に置くような)は保留して、文章を1篇ずつ個別に見ていく方法をとらざるを得なかった。「受賞者一覧」が端的に示すように、結果的には現代社会や国際政治などの主題に取り組んだ論説文よりも、私的な体験や日々の生活感覚に基づいた柔らかな文章の方が多くの評価を集めることとなった。といっても、本コンテストが内向きの主題を奨励しているわけではない。国内外の政治・経済・社会への批評的視線は若い人にとっても重要である。そのような視線を子どもの頃から折あるごとに深めていってこそ(他者との接触や交渉などを通して)、視野の広い奥行きのある社会人の条件が整うのだと思う。ただし、社会問題などを取り上げた応募作品を見渡すと、見方が一面的であったり、身近な大人やマスコミからの影響が顕著だったりして、残念ながら読み応えのある文章は少なかった。
一方、自分の周囲や日常から材を採ったエッセイは今回も多く、家族・友だち・学校・部活動・食べ物・趣味・習慣など、書き手の温かい思いを反映した文章は、そのほほえましさで、私たちに好ましい読後感を与えてくれた(もっとも、「ほほえましさ」の演出や押
し売りは逆効果である。要注意)。だが、自分の好きなものや自分に優しくしてくれる人だけに寄り添って、小さな蜜の壷に浸りきっているような文章もあった。これはあらかじめ他者を排除したやり方。一見安全運転のようだが、実は自分自身の可能性にも蓋をしている。もったいない。幼児語に多い擬音語・擬態語を乱発する文章の書き手にはこの傾向が強いようだ。自分が無造作に「らんらん、はふはふ、がががが」と書いていないかどうか、チェックしてほしい。
エッセイ部門では「そつなく」「ほどよく」が最も重視されているわけではないことも付記しておきたい。たとえば今回の応募作の中に編物を題材にしたかなり上手な文章があったが、これは「そつなく」「ほどよく」まとめられていたので選に洩れた。一方、蜘蛛の巣の張り方と自分の生活の領分とをクロスさせた文章は、やや生硬ではあるが自己の生き方を愚直かつ真摯に追求している姿勢が評価された(ちなみに後者はホフマンスタールの詩「青年と蜘蛛」を想起させるが、表現の質は全く異なるので、発想の類似は偶然の結果と思われる)。洗練された文章は美しい。しかし、洗練や完成度の高さだけが求められているわけではない。精神論をあらためて持ち出す気はないけれども、文章にはやはり書き手の人柄や品格、知性や意欲などが滲み出てしまう。エッセイの最終的な評価の決め手は、書き手の人格を信頼できる文章だ、と読み手に思わせることができるか否かだと思う。
次に小説部門。毎回感じることだが、現代の高校生は恋愛よりも将来の進路よりも、まず同性の友だちとの関係が大切で、これを構築ないし維持するために細心の注意と最大の労力を払っているらしい。スクールカーストなどいじめの問題やSNSなど電子情報の問題を取り上げた作品にしても、大枠ではSFまたはファンタジーに区分すべき作品にしても、その多くは孤独からの脱出や真の友の希求を主題としており、ここには現代の高校生が抱いている生活感覚の内実が如実に示されているように思われた。人間を友だちにするのは諦めて、犬・猫・小鳥など小動物に「友」としての救いを求めるものも散見された。この型の作品は小動物を人間以上の存在にしなくてはならない。いきおいファンタジーの意匠を凝らすことになる。が、発想の基盤に自己を冷静に吟味する厳しさがないので全体の構成は甘えの集積となりがちである。それゆえ主人公が救われても作品にカタルシスは訪れない。今回は人生に早くも疲れ果ててしまった若い会社員を主人公にした小説が目についたが、それらも他者の視点(主人公を客観的・批判的に見る目)が欠落しているので、自己憐憫の洞窟をさまようばかりで捗々しい展開が見られなかった。そのぶん、きちんとしたプロットによって組み立てられたディストピア小説の評価が相対的に高くなった。
今回は近現代の戦争を織り込んだ作品も複数見られた。太平洋戦争、満洲事変、原爆などを21世紀の若い目で捉え直そうとする試みに大いに期待したが、調査も考察も十分ではなかったためか、通説をなぞっただけで終わってしまったものがほとんどだった。新しい情報に驚いたり興じたりするのはもちろん個人の自由だし、ごく自然なことである。だがその情報を基にして物語を作ったり、それを読み替えて歴史の道筋に別の光を当てたりするには、やはり周到な調査と、歴史を他人事としない真剣な思索が必要になる。いいかえれば、膨大な読書が必要になる。短絡的な発想では底の浅い歴史コントしか生まれない。
作家や画家といった芸術家を中心に据えた作品でも同様のことがいえる。人間(生活者)としての喜怒哀楽と芸術家(表現者)としてのそれとを有機的に連関させて物語を展開しなくては、芸術家を登場させる意味がない。最近、みごとな芸術家小説が文庫本になった。紹介しておこう。辻邦生『黄金のとき時刻の滴り』(講談社文芸文庫)、原田マハ『ジヴェルニーの食卓』(集英社文庫)。芸術家小説を志す人にとっては、どちらも格好のお手本になると思う。
小説について、最後に。小説と物語。この2つの言葉を区別しないで使っている人がときどきいる。けれども、小説と物語は同義ではない。小説にはさまざまな要素がある。小説の面白さはストーリー上の面白さだけではない。たとえば今回、私が終始いちばんに推し続けた小説には、ほとんど物語がなかった。語り手「わたし」が冬の夕方、電車に乗って塾へ向かう。筋といえるのはそれだけだ。しかし谷崎潤一郎、筒井康隆、孟子、ランボーらの言説やイメージを自己の知覚や認識と突き合わせながら、書くことの困難と吸引力について、言語表現の試みが否応なく開示してしまう原理的な自己矛盾について、ときに自虐的なほど内省的に紡がれていく精密で緊迫した思念の純度の高さは圧巻だった。たしかにいささかペダンティックではあるし、このような濃密な表現は息苦しくて胡散臭いと見る向きもあって、評価は集まらなかったが、この玲瓏たる佳品をものした書き手への期待は個人的には弥増すばかりなのである。いや、期待はこの書き手にだけ向けられたものではない。物語以外の面白さを創出する能力は、多かれ少なかれ、小説を書こうとする全ての人に潜在的に備わっている。小説で自分は何ができるのか。何をしたいのか。日本語と自己に問いかけつつ、次回も新しい世界の構築に挑んでほしい。高校生の皆さんへの、それが私からの切なる願いである。