【小説部門・優秀賞】ひと夏の記憶

奈良県立奈良高等学校第2学年 横山 詩乃

数十メートル下には広いグラウンド。頭上には巨大な雲がゆったりと流れていて、今は太陽を隠している。そして前には申し訳程度に設置された柵。
走っているのは野球部だろうか。規則的な掛け声が聞こえてくる。校舎わきにある花壇では、マリーゴールドが咲いていた。
でももうそれらも今の自分には関係ない。
「……よし」
えいやっと足を振り上げ、柵の上に腰掛ける。空中に投げ出した足が軽い。
一つ、深く息をする。そしてちょっと前のめりになって、ゆっくりと重心を移動させていく。
手を、緩める。
あぁ、これでやっと――――
「やめときなよー。痛いよー?」
場違いな間延びした声が後ろから響く。
突然のことに驚き、声の方を振り向く。屋上のドアの横に、艶のある黒髪を一つにまとめた女子が立っていた。
突如介入してきた部外者を思わず睨みつける。すると今度は女子の方が驚いたように大きな目をさらに大きく見開いた。
「あれ、もしかして気づいてる?」
「そりゃ気づくに決まってんだろ。俺が死のうがあんたには関係ないんだから、放っといてくれ」
「関係あるよ、大あり!」
女子は状況を理解しているのかいないのか、グイッと俺に歩み寄り満面の笑みで喋りだした。正直、暑苦しい。
いつの間にか雲は去り、太陽が顔を出していた。
「第一に、学校が休みになる!」
「願ったり叶ったりだろ。大体もうちょいで夏休みじゃん」
女子は不満そうに、その小さな口をとがらせる。
「むぅ……。第二に屋上が閉鎖される!」
「元から立ち入り禁止。鍵壊れたまま放置とか、この学校大丈夫かよ。みんな、なんか近づきたがらないけど」
まあ、もう死ぬ人間がそんなことに思いをはせたところで、何も変わりはしないのだが。
すると、女子が今までで一番真剣な顔をしてこちらを見ていた。
「なんでみんなが近づかないか知らないの?」
「……転校生なんだよ」
正直、転校してきたのはもうそう呼ぶのにふさわしくないほど前なのだが。
ふーん、と女子はさほど興味がなさそうに頷いた。
「とにかく!目の前で死のうとしてる人放っておけるほど、私は薄情じゃないから!」
どうやら意地でも立ち退く気はないらしい。
自分としても人を巻き込むのは不本意だ。残念だが、明日にでも再挑戦することにする。俺はため息を吐きながら柵から降りた。
「もう来ちゃダメだよ」
尚も言い募る声を聞き流し、その日は屋上を後にした。

「で、君はなんで毎日屋上に来てるのかなー?」
「あんたこそ、なんで毎日いるんだ」
「あの日私が言ったこと、忘れたわけじゃないよねぇ?」
覗き込んでくる笑顔は綺麗だが、目が笑ってない。
悔しいがそうなのだ。俺はあの日から毎日人のいない時間を見計らって屋上に通っている。しかし、どれほど早い時間に来ても、どれほど遅い時間に来ても先客、彼女がにこにこしながら待っているのだ。
人一人分のスペースを空けて、ドアの横の日陰に座っている彼女の隣に腰を下ろした。
これも、毎日通ううちに決まってしまった定位置である。
二人で分ける仕様のアイスの片割れを、彼女に差し出す。
「へ、なに?」
「やるよ」
「い、いらない……ダイエット中なの!」
意外なことに、彼女はそれを拒んだ。せっかく持ってきてやったのに。
彼女はすでに大分細くて、痩せる必要はないように思える。しかし、乙女にとっていかに夏のアイスが危険かを語る彼女が必死なので、素直にアイスは引っ込めた。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。そう形容するにふさわしい美人なのに、話すとどこか残念だ。
心底安心した様子の彼女が面白くて、くすりと笑みを漏らす。そうしたら、彼女がまたいっそう嬉しそうに目を細めたので、再び緩んだ頬を引き締めた。
この状況はよくない。当初の目的である自殺からどんどん離れていっている。夏休み中はいいが、二学期からはまた絶望の日々が始まるのだ。そう考えると寒気が走った。
彼女に渡す予定だったアイスは、包装が汗をかき、地面に黒い染みを作っていた。きっと中身ももう溶け切っているだろう。
柵の方へ歩く。見下ろすと、さるすべりの花が地面に濃い影を作っていた。
「いつになったら一人にしてくれるんだよ」
「一人になんて、しないよ」
いつかのように、声の方を振り向く。彼女はこちらに歩いてきて、お互い手を伸ばして触れ合えるかどうか、というところで止まった。
あ、また。
初めて会った日も見せたその真剣な表情に、心がざわつく。
「一人にしたら、死んじゃうんでしょ」
「……死なない」
「嘘」
「そういう素振り、見せないようにしてたつもりだったんだけど」
「それくらいわかるよ」
だって、目に光がないもん。
そう彼女はどこか切なそうに続ける。
雲が空を覆い、風が強くなる。
「なんでそんなに死にたいの」
「別に……よくある話、いじめ」
彼女は驚いて息をのんだ。形のいい眉が寄せられ、悲しそうな表情になる。
「前の学校でちょっとね」
「いじめって、なんで君が、そんな」
「いじめることに理由なんかないだろ。まあ、程よく地味だったからじゃない?」
あまりにも俺が淡々と話すので、彼女は戸惑いの表情を隠せないようだった。
それでも、真っ直ぐ俺に視線をぶつけてくる。
俺も話しながら何も感じないわけじゃあない。今だって、蘇るトラウマに指先は情けなく震えてるし、背中を濡らす汗はきっと暑さのせいだけじゃない。
「そういうわけで転校したんだけど、友達作る勇気もやっぱりなくって」
彼女の真っ直ぐな視線から逃れるようにうつむくと、かすかに震える膝が目に入った。太陽に照らされて熱いはずなのに、体はどんどん冷えていく。
「大袈裟かもしんないけど、もう友だちなんてできないような気がしてさ」
わざわざ手に入れた、新しい人間関係を築くチャンス。でも見知らぬ人の視線にも悪意が含まれているような錯覚を覚えてしまう。せっかく話しかけようと思っても、最初の一音が喉の奥に引っかかって出てこない。
「こんな風にしか、この先、生きられないなら、死んだほうがマシかなって」
今でも思い出し、夢に見る、あの恐怖の日々。
仲の良かった友だちでさえ、まるでそんな事実なんてなかったかのように、あっけなく離れてしまって。味方は誰もいなくて、ひとりぼっちで。
うまく呼吸が出来なくなって、体も言うことをきかない。自分まで敵になってしまったような感覚。
明日なんかもう来なければいいのにって何度も呪って。
あんな思いを今後も味わうくらいなら、もういっそ――――
「大丈夫だよ」
顔を上げると、視界いっぱいに大輪の花のような笑顔が侵入してきた。
「だって私が一人にしないって言ったじゃん!」
何も知らないくせに、根拠のないこと言いやがって。無責任な。そう言ってやろうと思ったのに。
彼女の言葉は根拠も理屈もないのに、まるで曇った心を照らす太陽のようで。
「それにね、私といるときの君、すごく楽しそうに笑うんだよ。だからそんな君をみんなに知ってもらえれば、って何笑ってるの?あれ、泣いてる?」
薔薇色の頬をさらに赤くさせて話す声に、戸惑いと焦りが混じる。
彼女の無邪気な言動に何故か安心してしまい、笑みが漏れてしまった。でも嗚咽はこらえられなかったようで。
確かに、彼女といるときは心から笑えていた。
なんだか、いじめられていても、ひとりぼっちでも、この人となら明日も笑っていられる。
そう思える存在がいるだけで、十分な気がした。

走る、走る、走る。
自分の教室を飛び出し、毎日通っていた屋上への廊下を、階段をひたすらに走る。
あることを、確かめるために。

二学期が始まり、自分は少々手遅れなのを自覚しながらも、友だち作りに励んでいた。
正直、もう無理だと思っていた。でも、彼女にしつこく勧められてもう一度挑戦しようと思ったのだ。
夏休み中彼女と話していて表情筋も緩んだのか、クラスメイトから話しかけられることも多くなった。多くはないが、信頼できる人もできた。
そんな日々が続いた、ある日の昼休み。
「お前さあ、いつも放課後急いでどっか行くじゃん。どこ行ってんの?」
特大の弁当箱を広げる、仲良くなった友人に問いかけられる。
「屋上」
そう言った瞬間、空気が凍り付いた。
いじめられていた経験上、周りの空気に敏感な俺は当然気づいたが、何が気に障ったのかわからない。
「え……?」
友人は危うくエビフライを落とすところだった。
「お、お前……屋上行って、大丈夫だったのか?」
あ、と思いだす。そうだ、屋上って立ち入り禁止だったんだっけ。
「ああ、うん。先生とも会わなかったし」
「ちげぇよ!なんで誰も屋上に近づかないのか知らねえの?」
似たようなことを彼女にも言われたなあ、と考える俺をよそに、友人は早口でまくしたてる。
「いいか、屋上には――――」
外では雨がしとしとと降り始めていた。

走ってきた勢いのまま屋上のドアを乱暴に開ける。
雨が降っているというのに、彼女は扉からほど近いところで、ぼんやりと突っ立って空を見ていた。
「あれ、早かったね。って息切れしてるよ?どう、した、の……」
彼女が喋るのに構わず、ズカズカと歩み寄る。
その勢いのまま、彼女に向かって手をのばす。
「やめてっ!」
彼女はとっさに叫び、後ずさる。しかし間に合わず、俺の手は彼女に触れる――――はずだった。
「知っちゃったんだね……」
俺の手は彼女の体を通り抜けた(、、、、、)。
どれだけ手を動かしても彼女には触れられず、ただ残暑の生ぬるい大気があるだけだった。
気まずそうに彼女が校庭の方へ眼をそらす。そこには、傘の花がちらほらと咲き始めていた。
「いつ気づいたの、――――私が幽霊だって」
「友達が屋上のこと教えてくれるまで気づかなかった」
「そう」
皮肉な話だね、と彼女はらしくない自嘲じみた笑みを浮かべた。
『屋上には自殺した生徒の霊が出る』
『屋上に閉じ込められたり、話しかけられたり、その被害にあった人数は数知れず』
友人の口から飛び出す、穏やかでない噂の数々。
そんな馬鹿なと思ったが、笑い飛ばすにはクラスメイト達の顔が青ざめていた。それに不安な気持ちは膨らむ一方で。
このままなにもわからないままでは気持ち悪い。とりあえず、その事件をスマホで調べることにした。
すると。
「私の写真が出てきちゃったんだね、当時結構ニュースになったし」
雨脚は次第に強くなっていく。
俺の髪は雨でぐしょぐしょなのに、彼女は全く濡れている様子がなかった。
頬を打つ雨の鋭い痛みが、これが嘘じゃないといっている。
「私も、いじめられてたんだ」
彼女は沈んだ声で話し始めた。
「ちょうど君と同じ。思い出せないくらい小さなきっかけで、いや、きっかけすらなかったのかもね。理由もなく、いじめられてた。辛くて、辛くて……気づいたら屋上から飛び降りてた」
幽霊になってからは、人の幸せをひたすら邪魔したと言う。彼女の小さな唇は震えていた。
「でも、満たされなかったんだ。そりゃそうだよね、それじゃ私をいじめてた子たちとおんなじだもの。そんなときに、君が来たんだ」
彼女は満面の笑みを浮かべた。
「君とあの頃の自分を重ねてたんだ。本当にそっくりだと思ってさ。だから、君に私が見えるってわかった時に決めたの。君を助けるって」
だからあのとき君に言った言葉は私が欲しかった言葉なんだ。
彼女は一人楽しそうに微笑んで、そう種明かしをした。
「それで、あんたは満足したってこと?」
ごうごうと風はうなり、まるで嵐のようだ。
彼女は困ったように眉を寄せて笑い、静かに頷いた。
「お別れだね」
「……消えるのか」
「成仏するって言ってよ」
どっちでも俺には同じことだ。
「嘘つき」
「そうだね」
彼女の体が、少しずつ透けていく。
その様子に本当に最後であることを実感してしまい、瞳から涙があふれてくる。
「一人にしないって大口たたいたのは誰だよ」
「ごめんね」
でも、もう一人じゃないでしょ?
彼女はそう言って笑顔を崩さない。
「そういう問題じゃないだろ……っ」
もう顔は雨や涙の雫でぐちゃぐちゃだ。
もう彼女と雨が同化して見えるほどに、姿は薄れていた。
「ほらほら、もういっちゃうよ?」
ああ、もう本当に消えてしまう。
伝えなければいけないことが、とても大事なことがあるはずなのに。コトバになり切れなかった残骸たちが、口からこぼれて情けない泣き声に変わる。
おもむろに、手に触れられる。
いや、実際彼女の実体はないから触れないのだが、それでも確かに彼女の体温を感じた。
「ありがとう!」
突然、口をついて出た言葉。
陳腐で、言い古されてて、でも一番素直な言葉。
彼女は初めて会った時のように目を見開き、また心から嬉しそうに微笑んだ。
『   』

翌日。
もしかしたら、という淡い期待をこめて屋上への扉を開けた。
でもそこにあるのは初めて会った日と同じ青空と、ところどころにある水たまりだけ。
がっかりしてため息をつきそうになるのをぐっとこらえる。
『笑って』
もう声は聞こえなかったが、彼女は確かにそう言っていた。
彼女のような笑顔には程遠いが、ぎこちなく口角を上げる。そして季節外れのヒマワリを、そっといつも彼女が座っていた場所に供えた。
そのヒマワリを見ているだけで、彼女の眩しい笑顔を思い出してしまう。
目頭が熱くなり、景色がゆらゆらと滲みだす。
ああ、やっぱり我慢できないや。
涙がこぼれぬように上を向くと、ギラギラと太陽が俺を責め立てるように輝いていた。
煩いな。ほんと、最後まで勝手なんだから。
君のいない屋上はいつにもまして広く感じて。
どうしようもなく寂しくて。
「おーい」
いよいよ涙がこぼれる、というタイミングで、ふいに背後から声を掛けられた。
あの日と同じ。でも聞こえた声は少し低かった。
「おーい!大丈夫か?」
ハッとして振り返る。すると、そこには俺に屋上の話をしてくれた友人が、扉から身を乗り出すような不格好な体勢でこちらをうかがっていた。
「あんまり遅いから、心配でよ」
あんなに屋上のことを怖がっていたのに、来てくれたのか。
俺の、ために。
彼女は見ているだろうか。もう一人じゃないと、安心してくれただろうか。それとも、寂しがっているのだろうか。
心の穴はふさがらないけど。代替品なんてないけれど。
俺は、きっと。
「おーい!!」
呆然としていた俺を心配して、友人が先ほどよりも大きな声で呼びかける。
今度こそしっかりと口角を上げて笑う。
「今行く!」
上手に笑えているだろうか。
憧れのヒマワリのように。