【小説部門・優秀賞】卒業

筑紫女学園高等学校第3学年 梁木 みのり

卒業式後のざわめきが、学校から遠のいていく。一際甲高い笑い声が遠くから響いた。あれは、卒業の感慨のせいで浮足立っているんだろうか。それとも、感慨で溢れそうな涙を誤魔化して笑っているんだろうか。
私たち三人は人目を盗んで非常階段を上り、二階と三階の間の踊り場に腰を下ろした。私の右側に桃子、左側に遥が座る。白い柵の向こうにグラウンドが見える。真昼の日差しを受けて砂がちらちらと輝いている。私は卒業証書の筒を鞄に突っ込み、さっき買ったいちごのドロリッチの中蓋にストローを差して、唇の先で吸った。人工的な甘味が舌の上へ滑り込んでくる。
「終わっちゃったねー」
伸ばした膝の上で黒い筒をもてあそびながら、軽い調子で遥が言った。投げ出された脚が長すぎて羨ましい。私の脚は小さく折りたたんであぐらをかくしかない。
桃子は購買で買ったチョコパイをちびちび食べている。いつもは一瞬で平らげてしまうけど、今日はさすがに名残惜しいらしい。桃子は女の子らしい性格だけど、かなり食欲旺盛で体が大きい。
そんな二人の巨人に囲まれて、結局身長の伸びなかった私は背中を丸めた。あぐらをかいて猫背になる、この姿勢が一番楽だ。こぼれ落ちるように呟きが漏れてくる。
「みんな泣きよったね」
「やね」
「うちもめっちゃ泣いたぁ」
口をもぐもぐさせながら桃子が言った。私は「それな」と笑う。桃子は一年の頃からずっと変わらず、無駄にピュアだ。
「遥はいつもの遥やったな」
「すましとったねぇ」
「ふふ、まーね」
「泣きの演技でもするかと思ったけど」
「なにそれ、せんやろー」
本人は「ないない」と首を振るけど、遥ならやりかねない。遥の卒業証書授与は、ランウェイを歩いているみたいに綺麗だった。数々の男子を勘違いさせてきた実力でもって涙の一粒でも落としてしまえば、絶対に映画のワンシーンみたいになったはずだ。
グラウンドに元野球部勢が走り出てくる。全員丸刈りだった頭も、今はだいぶふさふさしてきた。あいつらが毎日怒鳴るみたいにかけ声を上げていたのも、全部過去のことなんだと気づく。
今頃、純もサッカー部で送別会をしているんだろう。ひかるは一年前、本当なら誰とお別れ会をしていたんだろうか。そういえば、と思って口を開く。
「ねえ、うちさ」
「うん?」
「ひかるが来れんかったとこまで来たんやね」
「あー……」
遥は言わんとするところを理解してくれたらしく、低く声を漏らしながら何度か頷いた。桃子は黙々とパイを食べている。この子もおそらくわかっているだろう。あの時、こっちが心苦しくなるほど心配してくれたのだから。
私はドロリッチを持っていない左手で、よくひかるが歌っていた曲のコードを空中で押さえた。今でも鼓膜に残る、芯の通ったまっすぐな声。少し鼻にかかった伸びやかなあの歌声。思い出すだけで、体中の血液が静かに脈打ち始める。
「なんかさぁ」
さっきの続きのような低く緩んだ声で、遥は言った。
「安希ってすごいよね」
「何が?」
「だって、わりとすぐひかる先輩のこと普通に話すようになったやん。こっちが気ぃ遣うわ」
「遣わんでいいやろ、べつに」
私が言うと、桃子もパイから顔を上げた。
「うちも安希ちゃんめっちゃ強いと思う」
「……そうかなぁ」
「うん。うちやったら五年も十年も立ち直れんもん」
「それはうざいわ」
遥がばっさり言い切って、桃子が「えええ」とのけぞった。私は思わず声を出して笑った。
ひかるは去年、この校舎の屋上から飛び降りて自殺した。卒業式を目前に控えた三月一日だった。あいつのせいで、全校のヤンキーのサボり場所として定着していた屋上は立入禁止になった。
私がひかると知り合ったのは、二年生の春だった。健介くんという純の部活の先輩に、ひかるの路上ライブのサポートギターを頼まれたのがきっかけだった。よく日に焼けてがたいのいい健介くんは、まるでひかるの保護者みたいな頼み方をした。
「一人は心配なんよなー。あいつ、何し出すかわからんけん」
三年の教室でひかると初めて会った時、私はまず、小動物みたいな人だと思った。私も他人のことは言えないけど、ひかるは男にしては体が小さく、片方の耳にピアスを空けていて、長い前髪の隙間から警戒心の強そうな大きな目が覗いていた。健介くんは「ひかる、挨拶しい」とやっぱり親のように促し、もう一人、聖司くんというすらっとした色白の先輩が、「無愛想でごめんな。歌は本当に上手いんよ」と困ったように微笑んでいた。背の高い二人がひかるを挟むと、ちょうど私と遥と桃子のようなバランスだった。ひかるは、いつも健介くんと聖司くんと一緒にいた。
ひかると私は、普段は教室やカラオケで音合わせをし、週末に街へ出て路上ライブをした。ひかるに一生懸命ついていくうち、彼が無愛想なのは人見知りだっただけで、打ち解ければ意外とよく笑う人だということがわかった。特に、歌っている時のひかるは別人のように明るくなった。最初のライブの時、私は斜め後ろでサポートらしく弾いていたのに、ひかるは私の肩に腕を回して半ば強引に隣に並ばせたのだ。その瞬間の胸の高鳴りは今でも忘れられない。ひかるが私を、単なるサポートギターとしてではなく、同じアーティストとして見ていると確信できた瞬間だった。
ひかるの声は、街の喧騒の中でも突き抜けるようによく通った。ほぼ毎週末ライブをしたので、だんだん覚えてくれる人が増え、三ヶ月もすると公園の中でやらないと邪魔になるくらいお客さんが増えた。ひかるはその美しい声で街行く人々を魅了し、私のことをも魅了した。ひかるの隣でギターを弾けるのが、私の誇りだった。細くて小さいけど力強くてかっこいいあの背中が、いつしか一番の憧れになっていた。そして私は髪を短く切り、明るい茶色に染めた。歌声とギターが気持ちよく重なっていくにつれて、私はどんどんひかるに染められていった。
ライブ後のひかるは、歌っていただけなのに酒に酔ったみたいになって、帰りながら無邪気に「楽しかったなぁ、またやろうな」と繰り返した。時にはまだ歌っていたり、私の肩に絡みついたりした。私はどきどきする胸を押し殺しながら、一方で、小さな男の子をあやすみたいにひかるを受け入れた。健介くんや聖司くんもこういう気持ちだったんだろうと思う。ひかるが一人では心配だという二人の真意が、だんだんわかるようになっていた。
毎日のように街へ出た夏休みが終わり、秋が過ぎ、冬になっても、ひかるが受験勉強を始める気配はなかった。相変わらず私を連れて街に出るひかるに、健介くんは冗談交じりに「大丈夫かー?」と笑っていたけど、聖司くんは何も言わなかった。
帰り道の「楽しかったなぁ」に、時折啜り泣く声が混ざるようになったのはいつだったろうか。降りしきる雪の中で、ひかるが泣きながら笑って、私にしがみつくようにしてこう言ったのを覚えている。
「ずっとこうしていような。このまんまずっと生きられたら、人生最高やろうな。俺、ずっと歌ってたいなぁ。歌っとらんと駄目やろうなぁ。歌わん自分なんて、考えられんもん。歌がなかったら、俺、どうなってしまうんやろうなぁ……」
私はただ、ひかるの背に手を回してゆっくり撫でながら、アスファルトに次々と融けていく雪をずっと見ていた。ひかるの細い体の温度に、私の肌も徐々に融けていくような気がした。
そして三月、ひかるは私の前から姿を消した。
「やけど、いつまでも引きずっとってもうちらしくないし」
ほとんど口の中だけで呟いた声は、丸めた背中の後ろでじゃれ合う二人には届かなかった。「あっ、そうやん」と遥がいきなり一つ手を叩き、鞄をごそごそと漁り始める。細くて長い腕は、すぐにスナック菓子の袋を持って出てきた。
「ポテチあるんやけど」
途端に、桃子が大きく身を乗り出した。私は危うく押し潰されそうになる。
「食べる食べる食べる!」
「ハイハイ落ち着け落ち着け」
「卒業式にポテチ持ってくるヤツな」
相変わらずの二人に私は苦笑した。遥が袋をパーティー開けすると同時に、桃子の手が一塊をかっさらっていく。もう一方の手にはチョコパイがあと半分以上残っている。呑気なもんだなぁと思ってから、私もその中の一人なんだと気づく。
だけど遥はこれから東京に、桃子は京都に出て行く。私は彼氏の純と一緒に地元に残る。四月になれば全員大学生で、こんなふうに屈託なく笑い合える高校生の日常は、あっさりと終わるのだ。
終わるんだな、と、今さら実感する。いや、もう終わったんだ。
私はひかるのなれなかった卒業生になって、ひかるの知らない大学生になる。四月にはあの頃のひかるは、年下の男の子になる。憧れだった先輩が、小さな男の子になっていく。
さっと、腕に鳥肌が立った。
ポケットの中でスマホが震えた。たぶん純だ。立ち上がりながら取り出して画面を点けると、案の定『純:終わった! 駐輪場で待ってる!』と通知が出る。普段びっくりマークなんて使わないのに、今日はやっぱり浮足立っている。こういう、意外と純粋なところが昔と全然変わってなくてかわいい。
「純、部活のやつ終わったって。行くわ」
「えー、ポテチ食べて行かんと?」
「食わんわ勝手に太っとけ」
「ひどーい!」
桃子の声に笑いそうになって、私は二人から背を向けた。「ばいばーい」という遥の声に、右手を挙げて応える。
もうこの二人と学校で会うことはないけど、あと二週間くらいは連絡すればいつでも会えるんだ。無意識のうちに自分にそう言い聞かせている。
純に『りょーかーい』と返信しながら非常階段を下りる。辺りのざわめきはほとんど消えた。陽光を浴びて白く光っている校舎は、卒業生を吐き出しきって満足そうに深呼吸しているみたいだ。
数日前、一周忌の法事があって、久しぶりに聖司くんと健介くんに会った。大学生になった二人は制服姿よりもうんと大人で、垢抜けて見えた。
「安希ちゃんももう卒業やな」
高校の時よりも落ち着いた声で、健介くんは言った。健介くんは私を気遣うように色々と話してくれたけど、聖司くんはほとんど喋らなかった。私はひかるの家族の人たちの後ろに隠れるように正座していた。一介の友人の立場でここに座っていることに、一抹の申し訳なさを覚えた。
健介くんと聖司くんを見ながら、もしひかるが生きていたらどんな大人になっていたんだろうと考えた。だけど、いくら思い描いてみても、聖司くんや健介くんのように真っ当な大人になるひかるは現れなかった。いつまでも歌い続けている、記憶の中のひかるが全てだった。
駐輪場では純が、自分の自転車のサドルにお尻の端っこを乗っけて待っていた。私を見つけると純は眉を上げて微笑み、小さく手を挙げた。くっきりとした二重瞼が春の日に眩しい。純はひかるよりも背が高い。私は「お待たせー」と駆け寄った。
「遥ちゃんと桃子ちゃんとおったん?」
「うん。今二人ポテチ食いよるわ」
「ふはっ、卒業式にポテチ持ってきたん」
「遥がね」
「あ、桃子ちゃんやないんや」
「偏見ー」
「ごめんごめん」
「ま、桃子もがっついとったけど」
「はは、平和やなぁ」
喋りながら純は自転車の鍵を開け、鞄をかごに押し込んだ。部活を引退するまでパンパンのスポーツバッグを使っていたけど、今日は革の学生鞄だ。それも、明日からは持つことがない。
小学生の頃私よりも小さかった純は、中学の時急に成長して私の背を追い越した。ひかるが死んだ後もずっとそばで支えてくれて、「こんな時にずるいと思うけど」と言って告白してくれた。ひかるの止まった時間と引き換えるように、純はどんどん大人になっていく。立ち止まりかけた私の手を引いて、まだ見ぬ未来へと迷いなく進んでいく。少年は青年になり、少女は女になる。少女の胸の中だけにいる少年は、きっと、少しずつ在りし日の面影を消していく。今手を離せば、きっとこの目の前の景色も。
私は不意に純の手首を掴んだ。
「純、」
「ん?」
「どこにも行かないで」
骨張った手首の体温が、どくどくと私の小さな手のひらの中で脈打っている。首筋に日の光を感じる。純が眉尻を下げて微笑んだ。私は急に恥ずかしくなって目を伏せた。昔と変わらない純の匂いが微かに香って、背中をそっと撫でた手に私は泣きそうになった。