【小説部門・優秀賞】駆ける

筑紫女学園高等学校第1学年 岡崎 風香

「高い」
それが口からこぼれた素直な感想。細マッチョでイケメンな彼に笑顔で話しかけられ、断れずにメニュー表を見たのが始まりだった。
「コースなんですけど」
人の良さそうな笑顔の彼の話は進む。
「大聖院までの坂道、結構急で疲れると思うんで、そこ僕がぐわぁってお客様をお連れして、拝観して……もちろん説明もしますよ!で、下っていって厳島神社前までの一時間コースでどうでしょう」
私は一時間コースの料金に目を疑った。新卒入社一年目の私。しかも無計画。思い立ったが吉日と家を飛び出した日帰り旅行。一万三千円。はたして、使ってよい金額なのか。いやいや、こんなイケメンに説明してもらいながら回れるんだぞ。そんなチャンス私の周りにはないじゃないか。今こそ決めるときだ私!
「じゃあ。お願いします」
「わかりました。ちょっと準備しますねー」

踏み台の小さな木箱に足を乗せた。その音はどこか曇って頼りないが、シートはフカフカで座り心地は悪くない。厳重にシートベルトをまかれ、赤いひざ掛けをかけてもらった。ふと前を向くと、高い目線に思わず背筋が伸びる。滑らかに進みだしたそれは私の予想より快適なものだった。
「お客様はどちらからいらしたんです?」
背中で人力車を押しつつ、私の方を見て彼は言った。
「あ、福岡です」
外国の方々からのフラッシュが目に痛い。そんなことにも彼はもう慣れてしまっているようだけど。
「福岡かぁ。女性に年齢なんて失礼だとは思いますけど、おいくつなんですか?」
「二十三になります。入社したばっかりなんですけど、昨日、えいやって決めて桜を見にここまで」
「じゃあ大聖院のことなんて知らなかったでしょう。楽しみにしてくださいね」
はいもちろん、なんて答えて、一人旅のつもりだった私の旅が、いつのまにかガイド付きのツアーになっていたことに気づく。
「残念なことに桜、まだ七分咲きなんですけど……」
一人の私に気を遣わせまいと、たくさんの事を話してくれる彼の心遣いがひしひしと伝わってくる。
「でも、これくらいの桜もかわいくて綺麗ですよね」
七分咲きの桜はどこか私みたいで、でも私と違ってこじんまりと美しい。
「はいわかります。僕もこれくらいが好きで」と語る彼の言葉を聞きながら物思いに耽る。

つい先日、上司に怒られたばかりだった。
ブライダルの仕事をしている。
まだまだ新米の私は、上司とペアでお客様の話を聞くことが多い。ようは、「研修中」の名札をつけた店員だと言うのに、私はでしゃばったことをしてしまった。そろそろ五十になろうかという上司の意見は、若い私や、若いお客様とは少し目線のズレがある。お客さんとの話し合いを終えたあと、企画案の作成中に「貴方はどう思う?」なんて私に聞いておいて、おそるおそる意見を伝えたら怒るなんて理不尽すぎる。未だに腹が立ち、少し口をとがらせる。
「どんなお仕事をされてるんです?」
そんな私の心を読み取ったように、人力車を、今度はちゃんと前を向いて引きながら彼は言う。
「ウエディング関連です。人の幸せをいっぱい見てるだけで、自分にはまだその幸せが回ってこないんですけどね。会社は女ばっかりだし」
私の会社は圧倒的に女性率が高い。そのせいか、上司は少しばかり怖いおばさんが多いし、私みたいな新米社員は、理不尽に怒られることが多い。若い男性社員なんて尻に敷かれているようなものだ。
「じゃあ、僕と一緒ですね!人を笑顔にする仕事!しかも男しかいないですし」
満面の笑みで彼は言った。確かに彼はずっと私を笑わせてくれている。
彼のおかげで思い出した。
子供の頃に見たウエディングドレスを着て、幸せそうに笑う女性たちを忘れられず、憧れて入社したんだった。
「まあ、来るお客さんたちはプロポーズ直後の幸せそうな人たちで、私たちが幸せにしてるわけじゃないですけどね」
現実は案外厳しかったことを今更知った。
「いやいや、そのカップルだけじゃなくて、両親とか周りの方々も幸せにする結婚式を作る仕事でしょう?もっと胸を張ってくださいよ。僕なんて、一回の仕事で二人乗せるのが限界なんですから」
それでも、貴方はこんなに私を笑わせてくれるじゃないですか。なんて言葉は口から出て来なくて、あははと苦笑いをするに留めた。

「じゃあ、僕の筋肉の見せ所ですね。」
うおおおおおッと思わず叫びたくなるような速さで、人力車は私の思いをふっとばすように坂を駆け上がる。
「アトラクションみたい……」
「よく言われますよ。外国の方なんて叫ばれますからねぇ。おっ!なんて感じに」
危ない。外国の方々に入ってしまうところだった。
七分咲きの桜と立ち並ぶ民家の、どこか素朴で凛とした表情と、彼の楽しそうな声や、観光客の英語が、このちょっとした旅にさらに特別感をくれる。
「視線気になったりします?」
彼の唐突な質問に、私は遅いなと思いつつ、やはり心地よいものではないと答える。僕なんてもう慣れちゃって、みなさんに聞くのが遅いって言われるんですよね、なんて彼らしい。
子どものような屈託のない笑顔で笑いかけられると、自分の悩み事を忘れてしまう。
人力車は坂を登り終えた。
私は旅の終りが近づいていることに気づく。

「足元気をつけて降りられて下さい」
置かれた木箱に足を乗せる。こんとくぐもった音がなった。目の間にある大聖院の長い階段を小気味良く音を立てながら上っていく。
「脇道に逸れますね」
逸れた小道のその足元には仏像らしきものがたくさん並んでいる。暗闇で見たら少し怖いだろうなと思う。一体一体はとても可愛いのだけど。
「五百羅漢庭園なんですよここ。お釈迦様の弟子五百人の、羅漢像なんです。かわいいでしょう」
そのズラッと並んだ像の一つ一つは愛らしい表情とサイズだ。その頭には毛糸で編まれた帽子がのせられている。
「島の方々が編んでくれてるんですよね。僕、絶対この場所にお客さんを連れてくるんです。知らないと入っていいのかわからない小道ですよね」
和やかな小さい像の笑みに四方八方から見つめられる。
私にもこのお坊さん達みたいに心から尊敬できる人がいたらいいのになあなんて思いつつ、私はこの場所を時間がないと焦る彼について、早足で抜けた。

階段を降りる。大聖院での参拝を終えた私に、「この手摺の筒をくるくる回しながら降りると、お経を読んだことになるんです。ほら、なんか書いてあるでしょう?」と説明する彼の言葉通りに手を動かしつつ、彼の話自体は右から左へ、正しくは下から上へと抜けていく。頭の中は本堂におかれていた仏像の説明でいっぱいいっぱいだった。
「この仏様、一つだけ願いを叶えてくれるんです」
彼はあえてなのか、ただ忘れているのか、何を願ったんですかなんて不躾な質問はしなかった。聞かれていたら申し訳程度に、「結婚です」なんて笑いながら答えていたのかもしれないと思うと少しゾッとした。
本当は何も願えなかったのだ。願ってどうにかなるわけじゃない。ただ、自分の力量が足りていないのだから。
そのときふと、この彼はなんと願うのか知りたくなった。彼には聞いてほしくないと思ったくせに、その疑問は言葉になって口からこぼれていた。
「車夫さん」
「は、はい?」
「車夫さんの願い事は何なんですか」
私の顔は引きつっていたのかもしれない。数段下で立ち止まった彼は振り返り、その笑顔を崩した。しまったと思った。失礼なことを言ってしまった。今すぐ謝らなくては。じんわりと汗をかいた。口からは息しか吐き出せない。焦る私に対して、彼は柔らかいのにどこか凛とした声で話し始めた。
「僕ね、お客さんには何か願ってみてくださいって言うんですよ。そのくせ自分は昔、なんにも願わなかったんです。お客さん、さっき何も願わなかったでしょう」
顔が暗かったのかもしれない。眉が下がっていたのかもしれない。何にしろ、接客のプロにはやはり自分が今までずっと思っていたことが筒抜けだったのだと気付き、恥ずかしくなった。
どんなテンションで話しだしたら良いかもわからない。
突然彼は大声を上げて笑い始めた。
階段を降りることを突然やめた私たちを不可解な目で見つめていた周囲の目は、今は爆笑している彼に向けられた。大きく彼は息を吐いて、眉を寄せしかめっ面を作って叫んだ。
「そんな下ばっか見てねえで前向けや。そのためになんか願うんだろ?願うことねえんやったら大物になるぞってほら叫んでこんか!って僕の先輩の言葉なんですけど。それから僕、これを言った彼みたいになるんや、って。そう叫ぶようにしてるんです」
最後にカラッとした笑みを浮かべた彼の顔がじんわり滲む。さっと掴まれた左腕が後ろに強く引っ張られる。最初はいやいや数段を登った。いつの間にか私は、階段を駆け登っていた。
「もちろん。叫ぶのは心ですよ、心」
それぐらいわかると心の中でツッコミをいれる。代わりに鼻をすすった。

階段を登りきり、二度のご尊顔はなぜか少し緊張して、何を叫ぼうかという焦りがせりあがってくる。すがる思いで彼を見た。
そのとき私の赤くなっているだろう目と、満足そうな笑顔の彼の目があった。
彼が目を閉じた。後ろには人はいない。

――ごめんなさい。私、願うこともないつまらない人間なんです。いや、だったんですかな。彼に言われて気づいたんです。私、そうやって先のことを見ないふりにして、暗い現実の一部になってただけなんだなあって。
でも私、隣の彼みたいに誰かを笑顔にしたいんです。まだ、何も決まってないですけど、がんばりますから私。次はもっとビッグな願い引っ提げてきますね――。

階段を駆け下りた。転びますよ、なんて声は聞こえないふりにして。ふと顔を上げた。その瞬間だった。眼下には青い海が広がってぽつんと赤の大鳥居。
後ろから、ここの紹介もしたくて、呼び止めたんですよと彼が声をかけてくる。私は返事を返すことはせず、残りの階段は海に視線を向けたまま、一段一段に両足を乗せながらゆっくりと下りた。

初めて足を乗せたときよりも軽やかな木箱の音。
近くの民家からは、気が早いのか、かけっぱなしなのか、風鈴の音が聞こえてくる。
人力車は周りの人を追い越しながらびゅんと坂を駆け下りた。二人の旅が終わりに近づくその感覚と音に、焦燥感と、満足感を得る。トンネルを抜けた。

狭い路地の中で、突然彼が「先輩は」と言葉を漏らした。そして、初めて言葉をつまらせた。自分の根っこの方から言葉を引っ張り出すみたいに、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「先輩は、あなたみたいな一人旅の客を乗せる珍しい人だったんです。普通はファミリー客を乗せるんですよね。でも、どうしても悩んでる一人旅の人をほっとけないんですって。それで僕、拾ってもらったんです。そのときにあの言葉を言ってもらって、ここに就職を決めたんです。強い関西弁のおっちゃんで、声もでかいんですけど、なにより笑顔が素敵で、それで僕も笑顔だけは真似しているんです」
彼の笑顔の由来を知った。笑顔に作り物感はない。きっと目に染み込んで離れないそのおっちゃんの笑顔に、つられて今も笑い続けていられるのだろう。私までも笑顔にするその笑顔が彼の魅力。そしておっちゃんの魅力なのだと思う。
「だから、あなたに声をかけたんです。そしたらたぶん先輩から見た昔の僕と似てて、気付いたら先輩と同じように声をかけてて。僕、やっと二回目の本堂で、仏様に目標を果たしたことを伝えられました」
あのときの閉じた目の中には、そんな思いが込められていたなんて、ちっとも思いつかなかった。
「ほんとに、ありがとうございました」
そんなの私が言う言葉で、早く声をかけなきゃいけないのに、息が詰まって、子どもみたいにわんわん泣いた。彼の言葉が私を助けて、その背景にはおっちゃんがいて、なぜか彼には感謝されて、なにかを認めてもらえたような、もしかしたら私が彼を笑顔にしたのかも、とか。そんなわけのわからないことばかり思いつく。でも、そんな妄想でも良い。嬉しくてたまらなかった。何がそんなに私の心を突き動かすのかはよくわからない。それなのにとにかく嬉しくて、私はひざ掛けの赤を濃く染めた。
そこから彼からの言葉はない。心地よい風だけが春を運ぶ。満潮の近づく厳島神社の近くは、ツアー客がゾロゾロと歩いていて、通り掛かる合間にパシャパシャと写真を取られるのだけど、そんなことはもう気にはならない。いや、その写真の私、目が腫れた子どもみたいな顔してるんじゃないかって心配はしてるけど。
時間、結構過ぎちゃいました。なんて言う彼の声は少し名残惜しいが、私は人力車を降りた。最後に踏んだ木箱からは、かこんと響きのいい音がした。

支払いを済ませ、彼と目を合わせた。
「車夫さん。私がんばりますね。車夫さんと、仕事は違っても、場所は違っても、相手にする人が違っても、いつか誰かに恩を返して、仏様に胸はって会いに来ます。そのときはまた、お願いしてもいいですか?」
少し照れくさそうな、それでも筋肉質な威勢のいい返事が耳に残る。
「本当にありがとうございました」
差し出された右手をギュッと握り返した。その手はじんわりと汗で湿っていた。

さっきまで私の乗っていた人力車を引いて、人混みをかき分け突き進む彼の姿を目に焼き付けた。
今度は一人で神様に会わなくちゃなあ。赤い神殿を前に、私は鞄から清涼菓子を取り出し、それを左手の上に三振りして、口に放り込んだ。