2017年度 大谷大学文藝コンテスト総評

 

今回はエッセイ部門に397篇、小説部門に131篇の応募があった。勉強や部活や友人・家族との付き合いのためかなり多忙な日々を送っている高校生諸君が(というのは応募してくれたエッセイを通覧しての感想なのだが)、幾晩も費やして応募作品の執筆に勤しむ姿を想像すると実に嬉しい。ちょっと涙ぐましくなるほどである。こうして十代後半の時期に、真摯かつ謙虚に、しかも根気強く文章力向上に取り組んだ人は、遠からぬ将来、その言語能力と集中力と忍耐力を学業や仕事に必ずや活かすことになるだろう。応募作品のとりまとめをしてくださった高校の先生方も、もちろん生徒たちへのそのような期待を込めて尽力してくださったのだと思う。先生方にも応募してくれた生徒諸君にも、ここで、まず感謝の意を表したい。

以下、今回の応募作品を読んで、気づいたこと、考えたことを述べてみる。

エッセイ部門の題材に部活や友人や家族が多いのは例年通りだが、今年はペットを扱った作のいくつかに目が止まった。ペットも家族の一員と見なすべきなのかもしれないが、アプローチの仕方に工夫を加えれば、ときにペットものは安易な人間ものより興味深い作品となる。ペットは人間の身近にいながら同じ人間ではないことで、「人間とは何か?」という深遠な問いを人に投げかけたりするからだ。人の予測を裏切る行為によって、作品に生き生きとした展開や場面を生み出すこともある。ペットを愛玩の対象として描くのは平板だが、ペットと同じ位置にあえて自分自身を立たせ、人間とその世界を客観的に見渡してみると、ユニークな感覚や新たな思想を獲得できる可能性がある。それは夏目漱石の『吾輩は猫である』がつとに証明していることである。

このことと関連して指摘しておきたいのは、抽象的な人間論や人生論の難しさである。人間や人生を論じるのは、そうとう人生経験を積んだはずの中高年の人間にとっても容易なことではない。だから若い人には到底無理、などといいたいのではない。若い人特有の生活感覚や感情の抑揚は、若い人だからこそリアルに捉えることができるものだろう。それに加えて一定以上の表現力を備えていれば、若くして素晴らしい詩や小説を書くことも夢ではない。ただし、くりかえしになるが、書くことができるのは詩や小説であって論説文ではない。「若者」とか「高校生」とかであれば、大人より自分の方がよくわかっている、だからそれらがテーマであれば自信をもって定義もできる、という人がいるかもしれない。実際そういうエッセイが何篇かあったが、みな説得力はあまりなかった。視野の狭さや主張の偏りが、やはり目立ってしまうのである。誤解しないでもらいたいが、私は大上段に構えて、人間とは、人生とは、などと定義づけするつもりは毛頭ない。そうしたくてもできないと思う。私は年齢的には十分大人であるが、いたって未熟な大人なので、人間や人生を明確に規定する自信などない。そしてこの自信のなさは年毎に膨らんでいる。我ながら情けない次第なのだが、しかしなかなか定義づけられないから否応なく問いつづけている、という自覚はある。このような暗中模索が文学の母胎であることも自覚している。この自覚は少し自負に似ている、と開き直っていってみたい気もする。

エッセイと作文との違いを意識することも忘れないでほしい。エッセイの定義は人間や人生のそれに匹敵するほど困難なので、人それぞれ異なっていてもかまわない。とはいえ、エッセイには作品化意識が絶対に必要である。作品化意識とは、要するに読者がいるという意識である。表現や構成に意を凝らすのも、読者がどう感じるか、どう受けとめるかを慮っての措置であるはずだ。読者に誰を想定するかも重要である。最初の読者が作者自身であることはいうまでもないが、2人目以降の読者を特定の身近な人々に限定してはいけない。家族や友人や学校の先生だけを読者として想定すると、無意識のうちに甘えやおもねりが混入しがちだし、内容・表現の両面において制約が生じることも多い。だからエッセイは、見ず知らずの人、自分とは年齢も境遇も異なる人に読んでもらうつもりで書くといい。そういう心がけによって日常とは違う次元まで自分の思考を掘り下げることが可能になるし、自分の書く言葉に対する責任をしっかり受けとめることにもなる。「あなた」を用いて読者に何かを要求したり注意を喚起したりするエッセイを応募作のなかにときどき見かけるが、この方式はどうしても「上から目線」になってしまうので、やめた方がいい。「上から目線」の対象としてふさわしくない読者を想定外とするのは、そのエッセイが抱懐している大切な部分を捨象することだ。そもそも「上から目線」の対象としてふさわしい読者だけを相手にしていては、文学には届かない。

作文との違いという問題は、実は小説部門の応募作品においても浮上した。今年はファンタジー、SF、ミステリーといった虚構性の高い作品や、周到なプロットを持つ物語が比較的少なく、また「私」「僕」などの1人称で語られる作品が多かったこともあって、作文的な小説に幾度も遭遇した。なぜ「作文的」と感じてしまうのか。題材が無関係とはいえないだろう。だが、志賀直哉などの私小説を引き合いに出すまでもなく、題材がいかに日常卑近なものであっても読み応えのある小説は確かに存在する。では、私小説の名品と作文的な小説とはどこが違うのか。ここまで考えると、やはり「文体」の違いという問題に直面せざるをえない。もう少し広く「表現」といいかえてもいいが、「何を書くか」ではなく、「どのように書くか」が勝負の分かれ目になるということだ。

今回の応募作のなかに身内の死を題材にした小説が複数あった。それらは主題の真率さが主人公の心の深みを照らし出し、ときに感動的な場面を見せてくれた。が、「表現」上の傷や凸凹が災いして審査員の評価は必ずしも高くはなかった。感動的な場面がいくつかあるものの、物語を持続させるためだけに置かれたような単調な場面もいくつかあるのだ。精緻に書き込む場面とあっさり書き流す場面とをうまく組み合わせて、展開にメリハリをつけることも必要だろう。斬新なアイディアを物語化する際は独りよがりになっていないか、十分に注意する必要があるだろう。

語りの不統一が作品全体をギクシャクさせてしまった小説もあった。部分的には鮮烈な描写が認められるだけに、非常に残念だった。念のためにいっておくと、語りの不統一とは(当該作品に即していえば)、1人称の「私(または僕)」と3人称の「彼女(または彼)」が1篇のなかに混在することだ。もちろん、長篇小説などで章ごとに語り手が代わるのは文学の手法として特別珍しいわけではない。複数の語り手の複数の眼差しが1つの対象からさまざまな意味を抽き出すこの手法は、善悪が二律背反の関係に収まらないような混沌とした世界を描くのに絶大な効果を発揮する。これを多くの作品で活用した作家として、たとえば遠藤周作がいる。だが、不用意に語り手を代えてはいけない。「私」という語り手が語ることのできることと、同じ登場人物が「彼女」として語られることとは、根本的に異なるのである。

ものを書こうとする人は、たくさん読む必要がある。どんな書物でも読まないよりは読んだ方がいいけれども、書くことに本気で取り組むつもりならば、まず「古典」を読まなくてはならない。ここでいう「古典」とは、文語で書かれた文学作品のことではない。年月を経て評価の定まった、クラシックという意味での「古典」である。先に言及した3人の作家もそこに属するはずだ。ところで、読みにくい作品と読みやすい作品が目の前にあって、どちらか1つしか選べないとしたら、あなたはどちらを選ぶだろう。前者を選んだ方が断然いい、と私は思う。じっくり丁寧に読み進める習慣を修得できるからだ。「じっくり丁寧」でもつづけていれば次第に早くなるし、いつのまにか「たくさん」読んでいるものである。

 

國中治