【小説部門・最優秀賞】雪解け

私立函館ラ・サール高等学校 第3 学年 吉田 武尊

 暖かな日差しに包まれて、私はゆっくりと目を覚ました。開かれた瞼に飛び込んできたのは痛いほどに眩しい、真っ白な天井だった。驚いて一度瞬きをするも、瞼の裏には焼き付けられたかのような鮮やかな白が残った。
「お母さん! お父さん目を覚ましたよ!」
 がたたっと立ち上がる音と共に、聞き馴染んだ娘の沙希の声が聞こえた。どうにも状況が飲み込めない。体を起こそうにも左腕に力が入らない。というより、左半分の感覚がない。右の足先に感じるゴワゴワとしたシーツの感触も、左には何もないのだ。触れられているのかどうかすら怪しい感覚である。
 あれこれ考えているうちにガラリとドアが開く音がした。何事かと思っていると、高校時代の友人で、今は医師の石原が私の顔を覗き込んだ。
「おい、前田。わかるか? 俺だ、石原だ」
 わかる、と言おうとして唇を開きかけたが、うまく声が出てくれない。かろうじて「ぁ……」と発することができた。それを見た石原は小さく目を見開き、傍の看護師に何か言った。立ち去って行く石原と入れ替わりに妻の真希子が寄ってくるのが見えた。悲痛と安堵の混じったような顔で、よかった、と繰り返す真希子と、ぐっと唇を噛み締める沙希の顔を右側に捉える。そこまで見えてから、私の視界はまるで映画館の上映前のように、ゆっくりと暗くなっていって、暗闇に落ちた。

 ポッ、ポッ、ポッという規則的な音で私は目を覚ました。体が重い。インフルエンザに罹った時のような倦怠感が私を包んでいる。どれだけ寝ていたのかと不安に思うなか、先程目を覚ました時より暗くなりかけてた病室に視線を彷徨わせると、私の側の丸椅子に腰掛けていた真希子と目が合った。
「目が覚めたのね。ちょっと待ってて、石原さんを呼んでくるから」
 ふんわり、と微笑んでから真希子が席を立った。だが、妻のあの微笑みは、不安や悲しみを押し殺したものであることを、三十年連れ添った私は知っている。
「よう、前田。目が覚めたか」
 片手をポケットに突っ込み、もう一方の手をひょいと上げて挨拶する石原の姿は、高校の時と少しも変わっていない。よっこいせ、と先程まで真希子が座っていた丸椅子に腰かけた石原は、私に向かってタブレット端末を差し出した。
「うまく話せないだろ。これを使え」
 私のベッドのリクライニングを上げながら石原はそう言った。礼の意味を込めて少し長く瞬きする。
「さて、旧交を温めたいところだが、先にお前に話がある」
 石原は持っていた手元の紙をぺらりと捲って続けた。
「まず、身元の確認。前田明夫、一九六七年十一月九日生、勤務先は私立栄南高校、で間違いないな?」
 ――間違いない。
 タブレットに打ち込んで石原に見せる。ただそれだけの動作に長い時間がかかってしまったが、石原は待っていてくれた。端末を眺めて小さく頷いた石原は、きゅっと目元を細めた。
「次にここにいる原因だが、今朝六時頃、家から出てすぐお前は倒れたらしい。見送りに出ていた真希子さんが慌てて救急車を呼んで、昔一度入院したことのあるウチにそのまま運び込まれた。ここまでいいか?」
 ――続けてくれ。
 私の返事に石原の眉間のシワが深くなる。ふぅ、と息を吐いてから石原は続けた。
「それで……だな。単刀直入に言おう。お前の頭からガンが見つかった」
 石原は脇に抱えていた別のタブレット端末をこちらに向けた。表示されていたディスプレイには、ドラマでしか見たことのないような写真が二つ並んでいる。既に真希子には告知されていたのだろう。私の枕元に立ったまま微動だにしていないのが見て取れた。
「こいつはお前の頭のCT写真だ。ここに大きな腫瘍がある。しかし、今日の初雪で救急車の到着が遅れたこともあって処置が遅れてな……。その……」
 淡々と説明をしていた石原が不意に言葉を切った。医者として務めを果たそうとする責任感と、友人に対し悲痛な宣告を行う苦しみとが、石原の瞳の中でせめぎ合っていた。私は端末に右手を滑らせ石原へと差し出した。
 ――言ってくれ。大体はわかっている。
 私の言葉に、石原は少し目を見開いた。開きかけた口元はぐっと結ばれ、石原は私と目を合わせるように端末から顔を上げた。
「左半身は、もう、動かない……」
 覚悟はしていたが、改めて言われると胸に冷たい何かが突き刺さったような気がした。
それでも、泣き崩れたり叫んだりすることはなく、現実味のない、まるで水に浮かんでいるような感覚だった。さらに石原は続けた。
「しかも、腫瘍の位置が悪く、手術は難しい。このままでいれば寿命は……長くて半年、」
 石原の喉から絞り出されるように発せられた言葉は、私を恐怖のどん底に叩き落とすことはなく、雪のように柔らかく、静かに地に落ちた。もはや驚くこともない。いや、驚いてはいる。人間驚きすぎると何もできなくなることがわかった。驚きの一言で片付けられない感情が、私の胸の中では渦巻いていた。
「もちろん、手術ができないからといって何もできない訳じゃない。辛い治療にはなるが、抗ガン剤と放射線治療でガンの進行を抑え、余命を延ばすことは可能だ。完治する可能性だってあるかも知れない。もっとも……、ステージⅣまで進行しているお前のガンの治る見込みは、数パーセントだ」
 苦しそうに、本当に苦しそうに言葉を紡ぐ石原を、私は優しい奴だと思った。他人のことに、ここまで心を尽くせる奴はなかなかいない。それでも、言われる治療法もパーセンテージも、全部どこか他人事だった。
「そこで、お前に考えてほしいことがある」
 背筋を伸ばしたような石原の一言で私は一気に現実に引き戻された。再び石原と目が合う。これ以上、何があるというのだろう。私は少し顎を引いた。
「QOL――クオリティ・オブ・ライフって考え方なんだが、知ってるか?」
 数瞬考えた後で『いや』とタブレット端末に打ち込む。そちらに目を落としてから、石原はぐいっと丸椅子をこちらに引っ張って座り直した。
「まぁ、言葉の通りだ。生活の質、つまり、この後どうやって生きていくか、ってことだ。手段を尽くして痛みを堪え快復を目指すか、痛みだけを薬で取り除き、心肺停止時には蘇生は行わない、という選択をするか、だ。無論、答えは今すぐじゃなくて構わない。家族ともゆっくり相談してくれ」
 そこまで言った石原のポケットからピリリリ、という電子音が響いた。今ではもはや見ることはなくなったPHSを取り出し、さっと石原は立ち上がった。
「じゃあ、俺はちょっと行ってくる。何かあったら呼んでくれ」
 ガラリ、という音を最後に、私の病室から音は消え去った。真希子が石原の閉めたドアに向かってお辞儀をしているのがやけに長く感じられた。外はいつの間にか暗くなっていた。未だに降り続ける雪に、救急外来の赤い光が反射して鈍く煌いていた。ふと、私の胸をよぎったのは、死への恐怖でも明日からの不安でもなく、一週間後に迫った中間テストの問題作りについてだった。

 それから一週間が過ぎていった。この一週間、見舞いの対応と検査で何かと忙しかった。
国語科の同僚や受け持ちの生徒達、青森に住む兄も会いに来てくれた。皮肉にも、普段会えない人に会えたのは喜ばしいことだった。だが、その人たちが去った後、決まって夜中の雪道のような静けさが底から顔を出すように空間を埋めた。教員の時にはずっと「暇が欲しい」と言い続けたが、いざそうなると、繁忙だった頃が懐かしく思えてくる。勝手なものだ、と笑いたくなるが、動くのは右の口端だけで、なおのこと哀しくなった。
 そうして暇になると、どうしても考え事をすることが増える。もちろん、これからの事だ。真希子とも話してみたが、結論はなかなか出なかった。頭の中で何度か、自分がチューブやら機材やらに繋がれて生きることを想像してみたが、どうにも他人事としか思えなかった。それだけではない。沙希の進学費用や家のローン、学校業務の引き継ぎ。考えることは後から後から増えてきて、自分が本当に何をしたいのか、何を考えるべきなのかわからなくなっていった。
 しかし、私の頭の時限爆弾はそんな私の心の迷いを許してはくれず、それは突然起こった。真希子と今後について話していた時、ぶつり、と意識が途切れたのだ。例えて言えば……電化製品のプラグをいきなり抜いたような感じ、だろうか。前触れも痛みもなく、ただぷっつん、と意識と体とが切り離されてしまったのだ。幸い真希子がすぐに石原を呼んでくれたことで一命は取り留めたが、次は危ないかも知れないと石原は言った。
 目を覚ました時に、私は漸く理解した。自分の命が本当に僅かであることを。そして、いつ死ぬのかわからないという恐怖を。面会時間の終わった一人の病室で、私は何年かぶりに涙を流した。それでも、どうしてもジタバタ暴れたり、叫んだりすることはできなかった。そんな元気も、自由な体もなかった。
 次の日の朝の回診で石原が言った。
「前田、考えはまとまったか?」
 遠慮がちに聞く石原に、私は『いや、まだだ』とタブレットに打ち込む。
「そうか……。医者としては、一刻も早く本格的な治療に移りたい。が、当人としては、悩むのも当然だ。だから……」
 石原は乾いた唇を噛み締めて言った。
「明後日の朝、答えを聞きたい。いいか?」
――わかった。すまない。
 私の返事に小さく頷き、白衣の裾を翻して石原は去って行った。再び私は一人になった。
前回意識を失ってから、眠ることが怖くなった。このまま目を覚ますことができなくなるような気がして。
 ぽつりぽつりと考えていると、真希子が入ってきた。私が倒れる前より少しやせたような気がする。こんな痛々しい夫の姿を見ても気丈に振舞おうとする真希子に、私は感謝の言葉も自分の声で言うことが出来ない。それが、ただただ、悔しくて、情けなかった。
「おはよう、お父さん」
 初めて子どもが生まれてから、私たちはお互いをお父さん、お母さんと呼ぶようになった。こうして子供がいないなかでそう呼ばれると、不思議な気分になる。
「お父さん、何かしてほしいことはある?」
 これも日々聞かれることだが、私は何もできないので、いつも『何も』と答えるだけだった。しかし、今日は『ある』と答えた。少し目を見開いてから、真希子は「えっ、なあに?」と尋ねた。
 ――本が読みたい。
私の打ち込んだ文字をゆっくりと追うと、真希子はにっこりと笑った。
「ええ、もちろん」
 真希子は片手しか使えない私を気遣って、電子書籍で読めるようタブレットを操作してくれた。電子書籍、というものを私はあまり好まなかったが、こういう立場になるとありがたい存在だったことに気づかされる。人は何時だって、立場や価値観を変えねば見えないことがある。国語教師として生徒に教えてきたはずの事を、改めて認識させられる。
 私は小説を読み続けた。真希子が帰ってからも、沙希が放課後に訪ねてきてくれた時も。
 漱石を読んだ。鴎外を読んだ。川端を読んだ。谷崎を読んだ。
 休むことなく、文字を追い続けた。何かに取り憑かれたように。かつて読んだ本ばかり執拗に。そして、読み続ける傍らで考えた。彼らは何故、作品を遺していったのだろうか、と。何の為に、誰の為に、と。
 やがて就寝時間になり、病院から電気が消えても、私は考えるのを止めなかった。いや、止められなかったというのが正しいのかも知れない。八十代で亡くなった父や母のこと。定年になったら旅行に行こうと真希子と話し合っていたこと。顧問であった文芸部の、来年の大会のこと。必ずしも答えが出るとは限らないけれど、思い出してはどうしたものかと考えた。それは、大切に仕舞ってあった宝石を眺めてからまた箱に仕舞うことと似ているような気がした。
 やがて目を瞑り、明後日、いや、既に零時を過ぎているので明日の朝、石原に言うべき答えを探し始めた。
 治すか、そのままにするか。こういう時、ドラマやなんかでは数パーセントの確率に掛けて、主人公は困難に立ち向かいながら快方に向かっていくのだろう。だが、そんな元気、というより意欲だろうか。それが私にはないような気がした。五十一歳というと、日本人の平均寿命からすれば、死ぬには早すぎるだろう。とは言っても、もはや人類という種の一人としての私の為すべきことは既に終えていると言っても良い。良い伴侶を見つけ、二人の子供を作り、一人前とまでは言えないまでも、それなりに育ててきたつもりだ。やり遺したことは――。
 ある。一つだけ。日頃考えまいと努めていたそれが、突如浮かび上がった。
 息子の明良と会いたい。今は大学を卒業して社会人として働いている……はずだ。はずだ、なんて不確実な言い方なのは、ここ二、三年、一度も連絡を取っていないからだ。大学の卒業式の日、一人暮らしをしていた明良が突然家にやってきた。
「今までお世話になりました」
 それだけ言って通帳を置いて明良は帰って行った。その通帳には、学費や生活費が四年分手つかずのまま残されていた。明良が来てから帰るまで、私は一言も話すことができなかった。聞きたいことは山ほどあるはずだった。それでも、私の口は開いてはくれなかった。明良のリビングを出る時の目を、私は忘れることができずにいた。
 ふひゅー、とため息が漏れる。その音すらも情けない気がして、私は目を強く瞑った。明日、真希子に明良のことを聞いてみようか。そう思いながら、私はゆっくりと息を吐いた。
 ガラリ、と病室を開ける音がして私は目を覚ました。いつも通り、ゆっくりと真希子が近付いてくる。
「お父さん、調子はどう?」
 ――大丈夫だ。それより、
 ここまで打ち込んで、少し躊躇った。が、私は再びタブレットに指を滑らせた。
 ――頼みがあるんだ。
 それを見た真希子が少し首を傾げる。続けて文字を打っていく。
 ――明良と、話がしたい。
 打ち終わって見上げた真希子の目尻には涙が浮かんでいた。それが、頷く度に零れた。
「私も、お父さんに会って欲しい人がいるのよ」
 そっと指先で涙を拭って真希子はドアの方に向かって頷いた。首が動かないので顔はよくわからないが、黒い人影が近付いてくるのはわかった。
 ようやく見える立ち位置まで人影が来たとき、私はまじまじとその顔を覗き込んだ。
「久しぶり、親父」
 ややぶっきらぼうな言い方は、出て行ったあの日とさほど変わらないが、少し痩せ、スーツに身を包んだ明良は大人びて見えた。
「ぁ……いぁ……」
 驚きでタブレットに文字を打つのも忘れ、私は震える右手を明良へと伸ばした。こんな時に息子の名前も呼べないもどかしさが、右手を上へ上へと動かした。その右手を明良はゆっくりと包んでくれた。大きく、ごつごつとした手だった。それが懐かしくも、嬉しくも感じられ、最後に手を繋いだのはいつだったか、と私はふと考えた。やがて明良がちらりと真希子の方を向いて頷くと、「ちょっと飲み物買ってくるね」と真希子は病室を出た。
「まず、親父に言いたいことがある」
 私の右手をゆっくりとベッドに戻し、明良は突然深々と頭を下げた。
「すまなかった」
 それは予期していなかった言葉で、どう返すべきか迷った。責められると思っていた。あの日、私の知らない内に明良を怒らせてしまったのだと、私は思っていた。それ以上追求して、また怒らせるのも怖かった。そして、そのまま数年が過ぎてしまったのである。
「あの時、俺もまだ子供だったんだ。大学生だなんだって背伸びして、結局何もわかっちゃいなかった」
 明良の肩や拳に力が入っているのがわかった。本気で悔いていることを、私は悟った。
「どうして俺達実の子供を放って、余所の子供たちのことばかり気に掛けているんだって、そりゃ、先生だから仕方なかったのかも知れないけどさ、あの時、俺は親父にかまって欲しかったんだ。でも、親父は仕事に一生懸命で、国語の先生なのに、どうして小説の登場人物の気持ちは分かって、俺達の気持ちはわからないんだって、勝手に怒ってたんだ」
 五年間溜め続けた思いをぶちまけるように、ただただ明良は話し続けた。私はそれを、黙って聞いた。そうして最後に、明良はふっと顔を上げた。
「親父、俺、教員になったんだ。わかったよ、親父の大変さが。悪い、報告が遅くなって」
 つっ、と温かいものが頬を伝った。それは拭うこともできず、流れるままだった。私はベッドから右手を出して、腰の辺りに置かれていたタブレットを引き寄せて、文字を打ち始めた。
 ――すまない。不器用な父親で。
「いや、いいんだ。不器用なのはお互い様だからな」
 目元をこすりながら、明良がにっと笑った。
 ――それと
 ――おめでとう、明良。立派になったな。
 最後の文字を打つ時、再びディスプレイがぼんやりと滲んだ。涙のせいか、明良も泣いているように見えた。
 ひとしきり話して、明良は帰る、と言って立ち上がった。学校で生徒達が待っているから、と。私は長く、力強く瞬きをした。行って来い、と胸で呟きながら。
 大きく頷いた明良は、二、三歩歩いてから立ち止った。
「悪い、親父が倒れてからやって来たりして。遅くなって、本当、ごめん」
 振り返らずそう言うと、明良は病室を出て行った。入れ替わりに真希子が入って来て、私と目が合うと「あの子、また来るって」とにっこりと微笑んだ。私は再びタブレットを手に取った。
 ――母さん、話がある。
「なんでしょう」
 笑顔のまま、真希子は私の隣に座った。
 ――私は、延命はしない。
「そう言うと思いました」
 最後に私の背中を押すように、真希子は大きく頷いた。
 窓の外の雪は、柔らかな日差しに包まれて、ゆっくりと解け始めていた。