【小説部門・優秀賞】真似男

国立名古屋大学教育学部附属高等学校 第2 学年 川島 玲

 嗚呼、兵長殿、兵長殿。しばし、日系人の皆様に私が何か話をしてもよろしいでしょうか。この重苦しい車両の中では、息をしているだけで気が滅入るというものです。
 この話は、私の他愛ない昔話でありますが、題を付けるのであれば、「真似」というのが相応しいでありましょう。

 その話の舞台は、私がかつて住んでおりました、下田という港町であります。
 ちょうど今から九年前、下田の港に東京からの定期便が新たに就航すると聞いたものですから、どんなものかと見に行ったのです。
 青の中に海鳥という名の雲の欠片が浮かぶ、十月も初めの事でありました。
 町民は皆その船を待ち侘びておりましたから、船の外観から客の身分や目的まで、根も葉もない噂が飛び交っておりました。悪魔が真っ赤な船で人を攫って行くのだという人もあれば、豪華絢爛たる船から金が降ってくるのだという人もありました。
 ええ、実際に見てみればそれはそれは大きくて。勿論日本国での話ですから、こちらの国においては普通も普通、中の中といった程度のものでありました。当然ではありますが、悪魔など乗っておらず、東京の方からやってきましたお客様方が、下田の地を観光しに参られていたのです。
 老若男女入り乱れた野次馬の中、整った洋服を身に着けた女性の方が、群衆に負けじと日本旅行会の旗を高く掲げておられたのが、印象的でありました。伊豆の山々が紅緋色の帳を纏う頃合でありましたから、その旅行は十中八九大成功の内に終わったものでしょう。
 混乱が渦を巻く人混みが落ち着いた頃、その中で目を回した私はすっかり疲れ果てて、その場に立ち尽くしていたのです。どれ程の時間が経ったでしょうか、海鳥のガアという声に我に返った私がふと横を見ると、そこには一人の異邦人が私と全く同じように立ち尽くしていたのであります。
 この男は何をしているのか、と思って見ていれば、その異邦人はまさしく何もしていないという事をしていたのであります。その青い瞳は上の上の澄んだ空のどこかに焦点を求めて彷徨っておりましたし、白く艶めかしい肌は不思議と目立つことなく周囲に溶け込んでおりました。
 初め、その男は考え事をしているのかとも思いましたが、待てど暮らせどその男は一向にその体の構えから指の一本すら動かさないのです。私はその時、「生気」という言葉の対極の言葉を持ち合わせておりませんでしたが、その言葉が男を形容するに相応しいものであると確信できるほどに、その男からは生命の匂いがしなかったのです。これは後に聞いたことでありますが、その男は横浜行きの船と下田行きの船を取り違え、この地で立ち尽くしていたのでありました。
 その男はこちらの熱烈な視線に気づいていませんでしたので、私は好奇心に唆されるままにその男の周囲をぐるりと蟹の様に歩いて回ったのです。群衆に揉まれて崩れたであろう黒い紳士服には所々白い傷が付いており、今にも右の脇から落ちそうな紳士帽はくしゃりと折れ曲がっておりました。その男は上を向いておりましたが、下からでも日本人よりも高い鼻がよく確認できました。
 私より一回りも二回りも大きな男でありましたが、その時だけはその雰囲気が酷く小さい物に思えたのです。
 四週、五週ほど蟹歩きを続けていると、いくら異邦人と言えども私もその男を見るのに飽きてきたのです。しかしそのまま帰るのも憚られるような雰囲気でしたので、私はその男のすぐ前に立ち、男を真似して同じ姿勢を取ることにしました。
 物真似小僧とも呼ばれた私の手、いや、体にかかれば、異邦人とて恐るるに足りません。幼き頃から培った物真似の技術で完璧にその男を模倣すると、同じように指の一本も動かさずに斜め上を眺めておりました。しかし生憎、布で作った帽子の持ち合わせが無かったものですから、その代わりにと空気で作った帽子を一生懸命抱えておりました。
 私は男の真正面に立っていましたから、その顔をひたすら眺めておりました。顔と言っても、そこから見えたのは顎髭と鼻と鼻の孔だけでした。ここで問題なのは、鼻の孔が鼻に含まれるか否かというような事ではなく、とにかくその男は私よりも遥かに大きかったのです。
 そんな事を思いながら、私は男の真似をして男の僅かな顎鬚と鼻を眺めておりました。鼻の孔もです。そのうち、顎鬚の本数を数えるのにも飽きてきた頃、もしやこの男は精巧に作られた銅像なのではないかという考えが私の頭の中に浮かんだのです。なるほどこれが非常に精巧な銅像であるのであれば、私がこうも執拗に鼻の孔を眺めているのに気が付かないのも、納得がいくというものです。しかし銅像にしてはやけに紳士帽が不安定でしたので、これまた好奇心のままに触れてみると、指に当たった部分がふにゃりと凹みました。それでも銅像は動かなかったものでありますから、誰かが気を利かせて紳士帽を銅像に添えたのかと思い、私とその銅像の帽子を入れ替えたのです。
 そうしてまたしばらく空気でできた帽子を持った銅像の真似をしていると、ふいに私の後ろ、港の方から強い風が吹きました。その海風に男の銅像が目をぱちくりさせたと思えば、急にこちらへと屈んできたのです。真似をするのに忙しかった私はすっかり銅像になりきっておりましたから、避ける事もできず、その男と額をぶつけたのです。ごつん、という音が両者の骨を伝って鼓膜に伝わったと思えば、私達二人はその場に尻をついて座り込んでおりました。何が起きたのかと目を開ければ、男も何が起きたのかと目を開けてこちらを眺めておりました。
 そうした後に、男が自らの右手に感触が無い事に気付いたようでありまして、驚いて右手に抱えている空気製の紳士帽を確認したので、私も同じように右手に抱えている布の紳士帽を確認しました。
 男は再びこちらを見ると、私が右手に布の紳士帽を持っている事に驚いたようで、右手で空気製の紳士帽を差し出してきましたので、私も同じく右手で布の紳士帽を差し出しました。そうして私達が再び紳士帽を交換すると、男がそれを被ったので、私も同じように紳士帽を被ったのです。
 すると、男はこちらに何かを言った後に右手を差し出してきましたが、私には異国の言葉を真似する事がどうにも出来なかったものですから、無言で右手を差し出して固く握手を交わしました。そうして男は去っていくかと思えば、また再び私を見つめて動かなくなってしまったものですから、今度は男が真似をする番かと思い、私が試しに左手を差し出してみると、男は首を傾げながらも左手を差し出し、私達は再び固い握手を交わしました。
 それが私には何だか楽しく思えてきたので、私は再び右手を差し出したのです。すると男は今度は逆に首を傾げて、右手を差し出してきました。私が再びその男の手を取り、今度は右足を街に向かって一歩踏み出すと、男も同じように右足を一歩踏み出しました。
 そんな調子で私達は歩き始めたのですが、私は酒屋のター坊がダイコン姉さんの名前を呼ぶのを聞いて、ふとこの男の名前が気になったのです。ダイコン姉さんというのは近くにある八百屋の看板娘の名前なのですが、そのお店はいつも棚の半分がダイコンで埋まっていたので、そう呼ばれていたのです。
 そうでした、名前のお話でありました。私には異国の言葉が分からなかったものですから、自分を指さして「宗一」と言いました。すると、一呼吸置いてその男も意味を理解したようで、同じように自らを指さして「江戸っ子」と言ったのです。私は何かの聞き間違いかと思ってもう一度「宗一」と言うと、男も同じようにもう一度「江戸っ子」と言いました。いくら海の外の事情に疎い私とて、この男が江戸っ子でない事だけは十分承知していましたから、きっと何かの聞き間違いであろうと思いました。しかし私の耳は、この男は「江戸っ子」と名乗っていると言って話を聞かなかったのです。仕方がありませんから、私は男を江戸っ子と呼ぶ事にしました。私は江戸っ子が何をしに下田の港に降り立ったのかは存じ上げませんでしたが、かといって江戸っ子は自ら何処かへ歩こうとする事もしませんでした。
 魚屋のゴーゴーじいさんの前を通ると、ゴーゴーじいさんがその男は誰かいと訊ねてきました。私が彼は江戸っ子だと返すと、ゴーゴーじいさんは何の冗談だと言ってゴーゴーと笑いました。ゴーゴーじいさんがその男に「よっ、江戸っ子」と呼びかけると、江戸っ子は数秒ほどして自分が呼ばれているのに気が付いたらしく、右手で紳士帽を取って、斜め上に動かすと再び頭の上に戻しました。私はこれが異国の挨拶かと感銘を受けて、先程より頭に被っていました空気製の紳士帽で江戸っ子の動きを真似ました。ゴーゴーじいさんも面白いと言って同じように空気製の紳士帽で挨拶をしました。
 そうして挨拶をした後、江戸っ子はまるで魚に穴でも開けるかの如く軒先に並ぶ魚を凝視していました。ですから、私が鱈を一匹取ってお金と共にゴーゴーじいさんに差し出すと、江戸っ子も鮃を一匹取って同じように差し出しました。するとゴーゴーじいさんはまたゴーゴーと笑って魚を包み、私達に差し出してくれました。
 私がお辞儀をすると、江戸っ子も真似してお辞儀をしましたが、私の空気製の紳士帽とは違って彼の紳士帽は布製でしたから、そのまま彼の高い頭より滑り落ちて、鰯に被さってしまいました。慌てて江戸っ子が帽子を取ると、またゴーゴーという笑い声が港に響き渡りました。
 その晩、私のボロ屋で寝食を共にした私達は、翌朝になると一層歩調を合わせてまた街へと繰り出しました。
 その時の私は何故か強く風呂に入りたいと思っていたものでしたから、私達は歩いて少しの所にある銭湯へと肩を並べて、いえ、並べるというには些か以上に身長差がありましたが、とにかく仲睦まじく向かったのです。
 銭湯に付くと、入口に居るカラカラおばさんがその男は誰だいと訊ねてきたので、私が江戸っ子だと返すと、阿呆な事を言うんじゃないと言ってカラカラと笑いました。
 江戸っ子はまたも紳士帽を右手で斜め上に掲げて挨拶をしたので、私も同じく空気製の紳士帽を掲げて挨拶をしました。カラカラおばさんも私達の様子を見て、同じように空気製の婦人帽を右手で掲げて私達を通してくれました。
 江戸っ子はどうやら銭湯というものが初めてだったらしく、服を脱ぎ始めた私を見て何やら驚いていましたが、扉の向こうから風呂上りの殿方が出てくるのを見て、私と同じように服を脱ぎ始めました。そうして私達は銭湯に入り、一時の極楽を楽しみました。
 江戸っ子はどうしていたかと言うと、私の行動を逐一確認しては、その真似をしておりました。江戸っ子の熱烈な視線に晒され続けた素っ裸の私は、耐え難い恥辱の思いに襲われておりましたが、そこをなんとかこらえて、同じように江戸っ子の方をちらりちらりと確認しておりました。
 江戸っ子の行動もまた興味深いものでありまして、日本人が首まで湯船に浸かって目を閉じるのに対して、江戸っ子は肩を水面より出して、片手で僅かばかりのお湯を持ち上げては肩に掛けておりました。私もそれを真似してみると、なるほど肩に流れる柔らかな湯の感触がこれまた乙なものでありました。それからというもの、下田銭湯の男湯では、この入浴法が密かに流行したのであります。
 帰り際、私がカラカラおばさんにお辞儀をすると、江戸っ子もまた同じようにお辞儀をして、またもやその紳士帽を床に落としました。
 カラカラという笑い声が、浴場に響きわたっておりました。
 外に出ると、日本旅行会の旗が遠くに見えたものですから、船の出発時刻を知らなかった私は焦燥の念に駆られてその旗の元へと駆け寄りました。東京行の船はいつ出るのかと訊ねると、あと一時間後には出ると言うものですから、私は慌てて江戸っ子の所まで戻るとその手をひったくって家まで駆けて行きました。しかしよく考えれば江戸っ子は何も荷物を持って来ておりませんでしたから、私は大声でヒエーと叫んで再び江戸っ子の手を掴み、港へと駆けて行きました。私がその後、酒屋のター坊に「ヒエーにいちゃん」と呼ばれるようになったのは、これが原因でありました。
 しかしこの下田という地を訪れて、魚と銭湯しか思い出が無いというのは酷いものですから、私はその途中でダイコン姉さんのお店でダイコンを一つ買って、江戸っ子に持たせました。江戸っ子も同じように買おうとしましたが、私は江戸っ子が右手の紳士帽を掲げたあたりでもう時間がないと言って彼を引っ張って行きました。
 そうして定刻一分前に江戸っ子を船へと預けると、私は再び野次馬の中に紛れて船を眺める事にしたのであります。すると左手に大根を持った江戸っ子が甲板から顔を出して紳士帽を掲げておりましたので、私も同じように空気製の紳士帽を掲げました。
 その後私がお辞儀をすると、江戸っ子も同じようにお辞儀をしましたが、その時、私達をぶつけた海風がまたしても江戸っ子を襲ったのです。紳士帽はあれよあれよと風に舞い、私の元へと降ってきました。奇しくも私達は、またしても紳士帽を交換したのです。
 それからというもの、私は寝ても覚めても江戸っ子の事で頭が一杯でありまして、彼の言語を真似しようと、英語というものを勉強し始めたのです。
 また、街に出る時は必ず布製の紳士帽を被って出ていきました。そうしてガーガーじいさんやカラカラおばさん、その他大勢の人に挨拶する時は必ずその紳士帽を右手で掲げて挨拶をしました。すると、それを面白がった人々が私の真似をし始め、気が付けば街中の人が江戸っ子の挨拶を使うようになっておりました。
 しかし問題でしたのが、布製の紳士帽を被っていると、ふとした時にお辞儀をすると必ず落ちて行ってしまうのです。私にとってはお辞儀も捨てがたいものでしたから、右手で紳士帽を取り、それからお辞儀をするという挨拶を私は新たに生み出しました。こうする事で、両者の良い所を取れるのです。これもまた町中に瞬く間に広がり、皆が同じ挨拶をするようになりました。
 そうして、一年が経った頃合でしょうか。珍しく私のボロ屋の戸を叩く音がしましたから、すっかりお気に入りになった紳士帽を頭に被ってその戸を開けてみれば、そこにはあの時の江戸っ子が立っていました。
 あの時の私の顔は、一体どのような変な形をしていたのでしょうか。固い握手を交わした私達は、お互い右手で自らの紳士帽を手に取り、お辞儀をしたのです。
 どうしてこの挨拶をするのかと疑問に思い顔を上げてみれば、江戸っ子も全く同じ姿勢で、訝し気にこちらを見つめておりました。これは後から分かった事でしたが、どうやら江戸っ子の街でも同じような事が流行したらしいのです。
 そうすると、江戸っ子が口を開いて、拙い日本語で「お久しぶりです」と言うものですから、私も彼を真似して「ないすとぅーみーちゅー」と言いました。私達はしばし笑い合った後、再び自己紹介を行いました。私が自分を指さして「宗一」というと、江戸っ子は「エドルド」と名乗りました。
 私は再び異邦人の口から江戸っ子という面白おかしな言葉が聞ける事を期待していたのですが、私の耳はどうしてもそれを「エドルド」だと言って聞かないのです。
 エドルドは私に何度も何度も感謝を述べました。あの時、もし私が船まで送り届けていなかったら、祖国に帰ることも叶わなかったかも知れないと。
 そして私はその時何故か、無性にエドルドの真似をしたくなったのです。私は一日でアメリカ行きの荷物をまとめ上げると、無理を言ってエドルドと同じ東京行きの船に乗せて頂きました。
 パスポート、というものを持っていなかった貧乏人の私に災難が降りかかった事は言うまでもありません。東京から横浜までの列車に揺られ、ようやく辿り着いた横浜港からエドルドと共にアメリカへと旅立つには、幾重にも積み重なった貨物に紛れる他ありませんでした。
 太平洋を渡る船の乗り心地は、それはそれは酷いものでありました。

 それはまるで、今私が乗っているこの鉄道のようで。
 おや、もうそろそろ、強制収容所でありますか。

 アメリカの地に降り立ち、エドルドの住む街を歩いてみると、皆が日本人である私に右手で紳士帽を掲げてお辞儀をするのであります。私はそれがどうにも楽しくて、出会う人々にみな同じ挨拶を返しました。
 それからはこの地の人々の真似をして風習を学び、言葉を覚え、すっかりこの地へと馴染んで行きました。逆に、私の取るに足らない様々な行動も、人から人へと真似されて、やがて町中に広がりました。
 日本人はよく片手を縦にして前に出し、「失礼します」という事を表しますが、アメリカの紳士方にはそれが非常に興味深かったようでありまして、私が気が付かない間に、街の挨拶は「右手で紳士帽を取り、お辞儀をしながら左手を縦にして差し出す」という奇妙なものになっておりました。
 アメリカという地で過ごす日々は、赤子の時以来の真似の日々でありました。人を見て、人を感じ、真似を通じて互いを理解する喜びに私は酔い痴れておりました。そしてその日々を私から奪ったのも、他でもない真似でありました。
 日本とアメリカの関係が悪くなるにつれ、私の周囲も変化していきました。最初はラジオの中の話であったのが、やがて街の人々に見放され、私はいつの間にかエドルドとも話さなくなりました。やがて戦争が始まると、当てもなく街を歩く事は無くなり、周囲のアメリカ人を見る度にどうしようもない罪悪感に襲われるようになったのであります。
 一体なぜ自分はこんなにも苦しいのか、そう考えていると、ある一つの事実に私は気が付いたのです。あれほど真似に敏感であったはずの私が、気が付かないうちに彼らを真似して日本人である自らを憎んでいた、という事実に。

 嗚呼、皆様、皆様。どうして、この車両の中が嫌悪に満ちなければならないのでしょう。
 どうして、日系人が集まって、日系人を憎まなければならないのでしょう。
 これも偏に真似であるというのなら、どうして我々は真似をするのでしょう。