【小説部門・優秀賞】海音

私立筑紫女学園高等学校 第2 学年 平 一葉

 船がゆらりと揺れて、ふいに体が浮いているような感覚に陥った。船内の一室。その小さな世界の外側にある広大な海の上に今、自分がいるのだとそれで実感した。私と一緒にさっきまでここにいた友達は全員、甲板の方へと行ってしまった。今頃はみんな、船が力強いモーター音をたて、水面を裂きながら進む様子を見て、よほど興奮を覚えているのだろう。今の私はそれを友だちと共有することができない。皆と一緒に騒ぎたいという気持ちは抑えるのが難しく感じる程だというのに、それを私の体は受け付けない。いや、正確には受け付けることが出来ないのだ。学校の一大イベントである修学旅行でも、こんな思いをしなければならない自分の運命が心底恨めしかった。耳元に手をやって、ずれていたヘッドフォンを直す。
 このヘッドフォンを私は家以外で外すことが出来ないでいる。中学生、高校生と、これのおかげで何度、好奇の目にさらされたことか。クラスメイトを始め、いろんな人から理由を聞かれる。その度に説明をするけれど、「聴覚過敏」という単語を最初から何も言わずに理解してくれる人は数少ない。大体、質問攻めに遭う。それが面倒くさくて、本当に言う必要がある時以外は言わないでいる。私の聴覚過敏は小学三年くらいから突然始まった。生まれつきではない聴覚過敏の原因にはストレスとか色々あるらしいが、私の原因はよくわからないと言われた。ある日を境に、人が集まって話をしている声や機械音がたまらなく耳障りな音になった。その音を聴いているときの感覚といったら、普通の人で例えると黒板を引っかいている音を延々と聴かされている感じだ。病院での治療や今つけている防音ヘッドフォンで、それもだいぶ緩和されているがやはり苦手な音が渦巻く環境へ自分から足を踏み入れることに、いつも抵抗と恐怖を感じてしまう自分がいる。人と一対一で会話する分には問題ないけれど、それが複数となると私はその場にいることが出来ない。今、ここにいるのだってクラスメイトが騒ぐ声や船から絶え間なく聴こえてくるモーター音を絶対に耳に入れたくないからだ。高校に入学してからは、私の事情を知った上で関わってくれる友達も増えた。しかし、そうやって気にかけてくれる人たちの態度がどこか私に遠慮しているようなよそよそしいものに思えてしまう私は、きっとひねくれた人間なのだ。
 部屋においてある自分のリュックサックの上に、「修学旅行のしおり」と弾んだポップ体で記された表紙が見えた。その下のほうには、「友永美香」と見慣れた自分の文字がどこか所在なさげにそこにあった。手にとって、ぱらりとめくると一ページ目に今日の予定表が印刷されている。「鹿児島県与論島」。このワードを修学旅行までに、いったい何度検索しただろうか。よ、という文字をスマホの画面キーに打ち込むと予測変換で真っ先に与論島が出るようになってしまった。この修学旅行では、一日フリーのサイクリングが予定されている。最終的に与論島の有名な絶景が見られるという百合ヶ浜へ集合するのだ。写真を何度も見たが、太陽光を反射してきらきら輝く美しい砂浜とエメラルドグリーンの海が本当に鮮やかで素直にこの風景を、自分の目で見てみたいと思った。しおりの百合ヶ浜の写真が載っているページを開く。今回、こんな厄介な障がいを抱えながらもこの修学旅行に参加したのは、同じクラスの親友である近藤真奈と、この百合ヶ浜へ行くためだ。浜だけでなく、サイクリングで見ることが出来る多くの美しい風景をこの目に収めたい。そして、ヘッドフォンを外し、花や風が奏でる自然の音、この見るからに穏やかな波の音を直接聴きたい。私の音の世界はいつもこのヘッドフォンに遮られている。私とは違って聴覚が正常な人々がいつも当たり前のように触れている生きた音。心地よくていつまでも耳を傾けて聴くことが出来るような音を、静かな場所で自分のものに出来たならどんなに素敵だろうか。そんな淡い期待を、重い荷物と一緒に家からここまで持ってきた。けれど現実はそう甘くない。サイクリングに行くとなったら、複数で会話することは免れないだろうし、何より同じグループの人に気を遣わせてしまいそうで何だか申し訳ない。それだけでなく、自転車に乗る際の防音ヘッドフォン着用が許可されるかも怪しい。田舎の島で車は少ないだろうが、学校側は確実な安全確保という義務がある。私が使っている防音ヘッドフォンはしゃべる相手の声は聞けるが、それを除いてほぼ何も聞こえない。そして、私自身が一番サイクリングに不安を感じている。聴覚過敏になってから、一人で外に出たことがほとんどない。交通事故が怖いから、と両親は私を自転車に一切乗せようとしなかった。お陰で最後に自転車に乗ったのは聴覚過敏になる前、小学二年くらいのことで自転車に乗っていた頃の感覚は殆ど残っていない。
「はあ……なんでこうなったんだろ」
 思わずため息と一緒に心の声を出してしまった。すると、ドアの外から人の気配がした。真奈が甲板から戻ってきたらしい。ぱん、と跳ねるように、けれど無音でドアが開いた。潮風で髪を乱した真奈がはにかみながら、部屋に入ってくる。
「めちゃめちゃ気持ちよかった!」
 ヘッドフォン越しに真奈の清々しい声が響く。個人的に真奈の声質は今まで出会ってきた人の中で一番好きだ。ヘッドフォンをしていても聞き取りやすい。もしかしたら、真奈が私のために声を意識してくれているのかもしれない。
「もうそろそろ到着時刻だね。美香、船降りる準備しとこうよ」
 確かに到着予定は夕方五時になっている。腕時計を見ると四時半を過ぎたところだった。真奈の言葉に頷き、手に持っていたしおりをリュックにしまう。
「ねえ真奈、今日は着いたらもう、すぐにバスでホテルに向かうんだったよね?」
「そうそう。どんなホテルか楽しみだよねえ」
 そんな会話をしながら荷物の整理をする。行きたかった場所が目の前に迫っていると思うと、先ほどまでセンチメンタルになっていたのにも関わらず気分が高揚した。ヘッドフォン越しに聞こえる真奈の声も普段よりいきいきしているように感じられた。

 ホテルまで向かうバスの道中、みんなは船の長旅で疲れてしまったのかほとんどの人が眠っていた。お陰で騒がしい声に悩まされるようなことはなかった。なんとなく、窓の外を眺めているとふいに女子とは明らかに違う種類の低い響き、けれどやわらかさも程よく含まれた声がヘッドフォンの中に滑り込んできた。
「友永、起きてる?」
 同じ行動班の山本祐樹だった。陸上部のエースとして活躍しており、一年生にしてインターハイにも出場した彼はスポーツ男子特有のさわやかな空気を纏っている。当然ながら、思いを寄せている女子の数は多い。本人がそれに気づいているのかどうかは知らないけれど。そして私もその女子のうちの一人であることは絶対に秘密だ。それを知るのはもちろん隣でのん気に爆睡している真奈、ただ一人である。
「起きてるよ。どうしたの?」
 努めて冷静に彼と目を合わせた。彼の声もまた、真奈とは違うタイプのよく通る声をしている。
「いや、ちょっと聞きたいんだけどさ。明日のサイクリングって参加する? ほら、騒がしい音が苦手だったよな。大丈夫なのかなと思って」
「あ、えっと……。それは先生に相談しようと思ってる」
「そっか、了解」
 会話はそこであっけなく終わった。何だか複雑な気持ちだった。山本君が私の持つ障がいを知っているのは、同じクラスでもあるわけだし当然のことだとわかってはいる。しかし、自分が普段出来るだけ人に隠しておきたいことを好きな人が意識しているというのは、「障がいがあるから、気遣わなければいけない存在」という、普通の女子への目線とは違うもので見られているような気がして何だかショックだった。着けているヘッドフォンの両サイドにある耳あて部分をぎゅっと握った。どうして人の言葉を上手に受け取ることが出来ないのだろうか。どれもこれも、障がいを持った私に対する同情の言葉のように思われてならないのだ。あまり聴覚過敏を人に言わないようにしているのだって、結局は変に気を遣われたくないからだ。でも、今ここにいる私という存在は周りからの気遣いがなければ成り立っていない。それは紛れもない事実だ。自分の思いと現実はいつも矛盾している。それに気づくたびに私は苦しくなって、縛られたように身動きが取れなくなる。ヘッドフォンで隔られた周りとの壁はどうしようもなく高く、厚い。

 ホテルの外観は白で統一されていて、ちょっとしたお城のような印象を与える。濃い桃色のハイビスカスも綺麗に咲き誇って肌に触れる空気は暖かく、気候はまるで沖縄のようだ。すぐに食事の時間だったので、ホテルの部屋に荷物を置いてそのまま食堂へと向かった。お腹をすかせていた私たちは、バイキングで普段の食事より多めの量を皿に盛り付け、綺麗にすべて食べ終えた。私はその後、明日のサイクリングについて担任の先生のもとへ相談しにいった。ヘッドフォンは外せないということを伝えると先生は渋い顔をした。
「うーん……。安全面がなあー」
私に何かあったら、学校の責任になることは間違いない。私の自己責任にするというのは、なかなか難しい。それを考えると先生も簡単には許しかねるのだろう。普段あっけらかんとしている担任の田中先生がいつになく考え込んでいる。しばらくして、先生が再び口を開いた。
「どうしてもサイクリングに行きたいか?」
 私の意志を確認するその問いに対して、私は自分の心に正直に答えようとした。「はい」か「いいえ」か、どちらかなんて決まっていた。しかし、私はそれを口に出すことができなかった。「何か」が、私の純粋な気持ちに入り込んで邪魔をしていた。そしてその「何か」は、私に本当の思いとは全く正反対の言葉を口にさせた。
「やっぱり不安だし、周りに迷惑を欠けてしまうので……。あまり行きたくないです」
 私の言葉に先生は、そうか、と返した。
「友永も不安なんだったら、やめた方がいいだろう。後から百合ヶ浜には行けるように検討はしてみる。とりあえず友永は明日部屋で一旦、待機しておいてくれないか?」
 それに私は、わかりました、とだけ返事をした。やっぱりこうなるかという半ば諦めの気持ちと、どうしてこの耳なんかのために自分の思いを抑えなければならないのだという怒りなのか何なのかよくわからない気持ちとが入り混じっていた。
 ホテルの部屋に戻り、ベッドの上でごろごろしていた真奈にそれを話すことにした。
「真奈、サイクリングのことなんだけど。私が参加したらやっぱり真奈たちに迷惑かけるし、先生とも話してやめることにした。どうしてもお荷物になるだろうから。ごめんね」
 真奈には投げやりな言葉に聞こえたかもしれない。そう言うと、真奈はとたんに悲しそうな顔になった。そして怒っているような表情を見せた。
「なんで私に何も相談しなかったの? 私、美香に迷惑かけられたとか一つも思ったことないよ。 そんなに私、頼りない?」
 はじめて見る真奈の様子に私は驚いて、何も言うことが出来なかった。
「……もう知らない。美香の好きにしたら」
 それから真奈は、本当に私と全く口を利かなかった。せっかくの修学旅行が私のせいで台無しだ。真奈を傷つけてしまったことに後悔ばかりが心の中に堆積していく。もうヘッドフォンの隙間に割り込んでくる音も声も何も聞きたくなかった。
 サイクリング当日の午前九時ごろ、出発した皆を見送ってから部屋で静かに過ごしていた。百合ヶ浜への集合が丁度、十二時だからもうそろそろかと午前十一時半を指している時計の針を見て思った。すると突然、部屋のドアがノックされている音がヘッドフォンの奥から聞こえてきた。
「友永、ちょっとドア開けて。百合ヶ浜行くぞ」
 聞き覚えのある声だった。驚いてすぐにドアを開けると、山本君が立っていた。身長がかなり高いので、私は自然と見上げるかたちになる。
「え、山本君何でここにいるの? 集合時間まであと三十分……」
「いいからすぐ来て」
 山本君は少し強引に私の手を引っ張って、ホテルの外へと歩いていく。
「近藤から頼まれた。友永、迎えに行ってくれってさ。本当は近藤自身が行きたかったらしいけど、ここらへん、意外と坂が多いから絶対に間に合わない。一応、俺陸上部エースだし、ここから自転車飛ばせば、余裕で着くから」
 山本君は自信満々な笑顔を見せた。私は何が何だかうまく状況を飲み込めていない。
「真奈が頼んだの? え、ここから飛ばすって自転車で今から行くの?」
「当たり前じゃん。ほら、俺の後ろ乗って」
 ホテルのロビーを出てすぐそこに停めてあった自転車にまたがりながら山本君が言う。
「え……」
「ほら、早く!」
 急かされて言われるまま、山本君の背中に飛びつくようにして自転車に乗った。そのまますごい勢いで、自転車がぐん、と前進する。やはりインターハイ選手なだけあって、恐ろしく速い。顔を横に向け、がっしりとした背中にヘッドフォンを押し付けながら目をつぶった。自分の肌が風を切っている感覚がはっきりとわかる。山本君が話していたとおり、坂が多いがそれをものともせず、私たち二人の乗った自転車は進んでいく。サトウキビ畑がすごい勢いで流れていった。頭上には、どこまでも青く澄み渡った空が広がっている。日に照らされた豊かな緑が、信じられないくらいの鮮やかさで私の目に飛び込んでくる。そして、私の鼓動はいろんな意味で高鳴っている。風に乗った潮の匂いがだんだん強くなってきて、思い切って前のほうを見るとホームページに掲載されていたとおりのエメラルドブルーの海と、白い砂浜が見えてきた。山本君は砂浜の手前にあるコンクリート部分に自転車を停めた。みんな、意外と時間にルーズなようで思っていたほど人は集まっていない。
「ここが、百合ヶ浜。すごく綺麗だよな」
 自転車を降りた私は山本君の言葉に力強く頷いた。百合ヶ浜は私の想像以上に綺麗な場所だった。
「なあ、友永」
 突然名前を呼ばれて、山本君の方を向いた。彼の額には汗が太陽光を反射して光っている。私は次の言葉を待った。
「近藤から少し話聞いた。俺がこんなこと言うのもあれなんだけどさ……。そんなに自分が他人に迷惑かけるんじゃないか、とか考えなくていいと思う。気を遣われるのが嫌かもしれないけど、それは友永に不自由を感じてほしくないからだよ。周りはさ、その耳のことも含めてお前なんだって認めてる。特に近藤は。だから、もう少し自分を受け入れていいんじゃないか?」
 山本君の発する一言一言が、私の心にしみていった。私は聴覚過敏をもっているというコンプレックスで、今まで自分を受け入れてこなかった。私のことを大切に思ってくれている人の気持ちを考えたことがあっただろうか。自分の勝手な判断で、私は真奈の気持ちを裏切ってしまった。私は馬鹿だ。
「近藤があっちで待ってるよ」
 山本君が指差した方向に、真奈の姿が見えた。
「わかった。ありがとう」
 心地よい潮風を頬で切って真奈のもとへと私は向かった。
「真奈―!」
 名前を呼ぶと、すぐに気づいて、真奈もこちらへ走ってきた。少し息切れしながら私の前まで来ると、
「昨日はごめん」
 と言って、私が真っ先に言おうと思っていたことを先に口にして頭を下げた。
「美香には言い過ぎた。美香には私がわからない悩みだって、たくさんあるはずなのに……。私、どうしても悔しくて。美香に頼ってもらえなかったこと、そして何より、自分は迷惑な存在だって美香に思わせてしまっていたことが本当に悔しかった。あのね、美香が困っているとき私が助けたいって思うのは、『障がいを持っているから』じゃないよ。たとえそのとき、困っている原因に耳のことが関係していたとしても、そんな理由で助けるんじゃない。『親友だから』だよ。障がいを気にする必要なんてない。そんなのあってもなくても、美香は私にとって大切な存在なんだから」
 真奈の真剣な瞳を見たとき、私は自然と涙を流していた。目の前にいる涙でぼやけた彼女は驚いて慌てていた。
「私も、ごめん。いつも真奈や周りの人に気遣いばかりされてる自分が嫌でしょうがなくて。聴覚過敏のことをいつも自分の欠点だと思って、一番自分を認めることが出来てないのは自分だった。本当にごめん。そして、ありがとう、真奈」
 ありがとう、に私は沢山の意味を込めた。真奈も少し涙ぐんでいた。
「真奈、ヘッドフォン外してくれない?」
 すぐ近くで、波が何かを語りかけるように、浜を優しく打っては、ひいていく。
「え、大丈夫なの?」
 真奈が不安そうな顔をする。真奈の言葉に私は笑顔で答えた。
「大丈夫。ずっと思ってたんだ。この自然は、どんな音を生み出してるんだろう、って。真奈と一緒に、その音を聴くのが、最初から私の一番の目的だった。自分のせいで台無しにするところだったけど、真奈たちに助けてもらって、やっとここまで来れた。今はもう、ヘッドフォンを外すことが怖くない」
「……わかった。外すね」
 真奈がゆっくりとヘッドフォンに手を伸ばす。ヘッドフォンが外されると同時に私の耳元に直接触れながら、新鮮な潮風が、ひゅう、と駆け抜けていった。木がさわさわと揺れる音、カモメの鳴く声、そして海の音がする。白波がまばゆい浜辺に打ちつけては、海に吸い込まれて消えてゆく。それに合わせて自然は音を奏でている。
 ザアーン……ザアーン……。
 不快さのかけらもない生きた音が直接、私の耳に響いてくる。音を聴いて、こんなに清々しい気持ちにさせられたのはいつぶりだろうか。もう耳にヘッドフォンの存在はない。真奈たちが、私と、この清らかな音が溢れる世界をつないでくれた。たった一つの壁を取り外した世界は例えようもなく美しかった。