2018年度 第6回大谷大学文藝コンテスト総評

 

毎回、多くの力作が審査の会場を賑わせる本コンテストだが、今回はとりわけ応募作が多く、3度にわたる審査会は例年以上に熱気の籠ったものとなった。エッセイ部門に寄せられたのは1074篇、小説部門には178篇である。ちなみに昨年度の応募数はエッセイ397篇、小説131篇。やや大袈裟な言い方をすれば、今年度は一気に激増したわけである。
テーマ(自由)や分量(400字詰め原稿用紙に換算してエッセイは5枚、小説は20枚)の規定に変更はないので、応募を仲介してくださる先生方の御尽力を措くとすれば、高校生に次のような変化が生じたとしか考えられない。たとえば、自分自身を含め、人間というものに強い関心を抱くようになったこと。それに関連して、人間が生きる時間と空間(むろん、それらを拡大すれば時代と社会になる)への問題意識が高まったこと。さまざまな文学作品に触れているうちに、非日常的・非実用的な言語表現の面白さに目覚め、自分でも挑戦してみたくなったこと。日常的にも非日常的にも、人間にとっていかに物語が大切かに思い至り、これも自分で創り出したくなったこと。
もちろん、高校生たちがこうした発想を具現化し、1篇の独立した作品を完成させるには、時間もエネルギーも特殊な要素が必要となる。毎日の授業、部活、塾、友人・家族との交流。これらは皆、高校生にとっては時間もエネルギーも多量に要する重大事だけれど、これらをこなすだけで精一杯、という人はエッセイも小説も完成させることはできない。作家になりたいと漠然と願っているだけでは作家になれない、などとよく言われる。ここで作家になる方法を説くつもりはないが、原理的にはそれと同じことである。自分と冷静に向き合う時間。奥深くまで隅々までじっくりものを考え、ていねいに思いを巡らせる時間。幾度もの書き直しが必要だから、それも含めての執筆時間。慌ただしい毎日のなかから、このような時間を無理矢理にでも引っ張り出すことができなければ、スタートラインに立つことすら覚束ない。
そのことを考えると、今回のように多くの作品が生まれたこと自体、ほとんど奇跡のように思えてくる。冒頭に挙げた作品の数だけその作者はいる。つまり、それだけ多くの高校生が、忙しい日々のなかから、考えたり書いたりするための自分ひとりの時間を見つけ出し(作り出し)、それを自分の努力でなんとか維持しつつ作品の完成という段階にまで辿り着いたのだ。まさに快挙である。

以下、今回の応募作品を見渡して気づいたことを、いくつか指摘しよう。
まず、文章を書く際の基本的な誤りや勘違いにはくれぐれも注意してほしい。これはエッセイと小説とに共通していえることだ。具体的に挙げてみる。1人称の語り手と3人称の語り手が混在していること、1人称で統一されてはいるものの「私」と「僕」とが混在していること、「です・ます」体と「である」体とが混在していること、といった文体・構造上の不統一。実験的な小説などではあえてこのような不統一が試みられる場合もあるが、そういう野心が 特異な表現効果として成立しない限り、文体や構造の不統一は作品の破綻以外の何ものでもない。
「とても」や「そして」の多用が、表現に甚大なダメージを与えることも知っておいてほしい。「とても」と「そして」は必然性なしに使われることが多いため、表現が間延びしたり曖昧になったりしがちなのだ。これら2語に限らず、同一の語を近い場所で繰り返すのもタブーである。これも文章作法の基礎に属する約束事と言える。ボキャブラリーの豊かさを披露するために作成されたような文章は大概嫌味なものであるし、ボキャブラリーが豊かだからといって必ずしも良い文章が書けるとは限らない。けれども文章が作者のボキャブラリーの乏しさをおのずから証明するようでは、読者の側は苦笑するほかなく、読み進めるうち次第に悲しくなってしまう。
「とても」と同じく、程度が予想や常識を上回ることを表すのに使われる「ひどく」という副詞がある。最近、特に若い人々を中心に使用頻度が高まってきたこの「ひどく」が、「酷く」と漢字で表記される例を、特に若い人々の文章のなかでしばしば見かける。これは手書きでないために、「ひどく」と打ち込んだとき最初に出てくる漢字が、表記としてそのまま確定してしまうのだろう。しかし「ひどく」は、「ひどく」と平仮名で表記すべきではないだろうか。「とても」を「迚も」と表記するのが例外的だという理由だけではない。「酷く」はやはり形容詞「酷い」の連用形であるから、「酷く苦しい」ならばともかく、「酷く楽しい」などという表記には違和感を禁じ得ないの だ。要は、このような表記の部分にも細やかな配慮を行き届かせてほしいということである。
原稿用紙の使い方についても、念のため、問題点を指摘しておく。原稿用紙の枡目を全部埋め尽くすのが規定通りの書き方というわけではない。文章のなかには段落を作らなければならない。そして段落を変えるとき、行頭を他の行より1字分下げなければならない。論説文の場合は段落を意味のまとまりと考えてほぼ間違いない。が、エッセイや小説では文章の流れをコントロールする役割も段落が担っていて、文章の密度やスピード感がどうなるかは段落の配置いかんにかかっている。カッコの使い方・使い分けにも覚え違いや恣意的なものが散見される。ライトノベルには意図的に変則的な用法が持ち込まれたりするが、それを鵜呑みにしてはいけない。正統派の用法を習得した上で、自分なりの実験に踏み込んでほしい。勘違いや覚え違いをそれと知らずに続ける杜撰さは、表現者として許されるものではない。
もう1つ強調しておきたいのは、タイトルの大切さである。エッセイであれ小説であれ、読者が最初に目にするのはタイトルである。文藝コンテストでもそれは同じで、応募作品に対したとき、審査員はまずタイトルを見、それから文章の方に目を移す。タイトルの印象は、文章を読んでいるあいだほぼずっと持続している。この重要性に気づいてタイトルに工夫を凝らしている作品があるかと思うと、素っ気ないタイトルや内容説明そのままのタイトルもある。どちらが審査員の脳裏に深く刻まれるかは言うまでもないだろう。慣れないうちは、ちょっとカッコつけすぎかもしれないと恥ずかしくなるような、テンションの高い表現をタイトルに嵌め込むことをお勧めする。装飾過剰も詩的な比喩もよし、象徴の高みを目指すもよし、読者の意表をつく奇抜な表現もよし、という具合にタイトルについていろいろアイディアを巡らせていると、作品の内容・構成・情調などが自然にはっきり浮かび上がってくることも少なくない。作品生成の一環としても、タイトルに工夫を凝らすことは大切な作業なのである。

毎回のように、審査会ではエッセイと作文との違いが論議の的となり、「作文的」はマイナス評価に繋がりやすい。そこで次回の応募を考えている人のために一言、この点に触れておく。両者の違いは題材の違いではなく、表現の違いだと思う。自分とその周辺を題材にして、自分のことを読者にわかってもらおうとするのが作文。一方、同じ題材を、文章表現そのものが楽しめるように料理するのがエッセイ。簡潔すぎて意を尽くしたとは言えないが、私はこのように考えている。作文は原則として目上の既知の人に読んでもらうもの。エッセイは原則として読者を選ばないもの。そういう分け方もできそうだ。
お袋さんの強力な支援を得て「料理の得意な男」を目指す人、犬と鳥との絶妙なバランスの上に独特のペット愛を花咲かせる人、家業の牛乳屋の誇らしさに目覚める人。みな、読み応えのある充実したエッセイだった。小説の方では、『銀河鉄道の夜』と『ハリー・ポッター』とロシアのロマノフ王朝とをドッキングさせた彩りも物語性も豊かな作品、女子高生同士の微妙な愛憎を描いた作品、姉弟の家庭内・学校内での屈折した関係を巧緻に浮かび上がらせた作品、幻想空間のなかにアイスクリームの幻像をリアリティをもって描き出した作品、などが印象に残った。このような作品の書き手は自分の才能を信じてほしい。そうして今後も末長く書き続けてほしい。

國中治